廃墟と楽園 7 - 赤楽 28年 - |
忘れた頃に戻る意識…時間の経過というものが全く感じられない空間だと陽子は漠然と思った。 未だ全身は疼痛に苛まれ、体中が酷く熱く感じられた。 瞳を開けるようになったのはいつだったか。 己の持ち合わせている力の全てを目蓋に注ぎこんで抉じ開けた先に広がっていたのは、閉じていた時と然程変わる事のないぼんやりとした世界であった。 世界が光りを放っているのか、己自身が光りを纏っているのか…薄っすらと息づくような淡い光りだけがその世界の全てであった。 横たわっているのか?漂っているのか?浮かんでいるのか? 自分が位置している場所、所属している場所もわからない。 『何も…ないんだ、ここには…』 声に出すのが酷く億劫で、頭の中だけで呟く。 何故ここにいるのか、どうやってここへ辿り着いたのか、それ以前に己が何者なのかすら…今の陽子からは消えうせていた。 時折己のすぐ傍で感じる柔らかな気配と、遥か彼方で己を一途に求める気配に、"1人じゃないんだ"という安心感だけは持てていた。 瞳に映る世界には果てなど感じられないのに、"閉ざされている"と思うのは何故であろうか。 居心地の悪さと漂う至福が同居し、相反する思いが思考を麻痺させていくようである。 『駄目…考えろ…瞳を閉じては…だめ…』 意識を手放してしまった先に待ち構えているのは、とても哀しい夢。 極彩色に満たされた美しい箱庭が…目の前で崩れていくのを眺める事しか出来ない夢。 見覚えはない筈なのに、懐かしい笑顔が溢れている。 その笑顔の1つ1つが翳りを増し、少しずつ消えていくのだ…遂げられなかった想いだけ残して。 『待ってっっ!』 何度大声で叫んでも、誰も気付いてはくれない。 差し伸べた腕は空を掻き、掴めなかった想いは箱庭の中に溶けていく。 壮大な宮殿は主を亡くし朽ちていくのみ。 静かに寄せる波に洗われ、吹き抜ける風に削られていく堂屋。残された花々は荒れ果てた園林に往時の姿を微かに残す。 廃墟となった箱庭には…溶けていった想いだけが息づき、白金の影となって世界を覆っていた…。 『そんなの…見たくない…』 意思に反して閉じられようとする瞳から零れる熱い雫が、"まだ生きている"と己の生を実感させるとは皮肉なものであると…陽子は意識を手放しながら思った。 □■□
陽子が姿を消してから6日が経とうとしていた。 王気を唯一辿れる景麒は世界の狭間で呪によって囚われている主の存在と使令を確認し、対応策を判ずる為に蓬廬宮へと向っていた。 常世随一を誇る己の足で駆けて行けばよいのは解っていたが、積もりに積もった疲労がそれを良しとしなかった。 意識を取り戻してから4日、殆ど睡眠も食事も取らず主を求め、主を救い出す方策を求めて放浪していた為である。 寄りそう芥瑚に支えられ、求める答えが提示される事を只管希いつつ雲海を西へと突き進んでいた。 同刻、金波宮では要石にかけられた呪の解読に全力が注がれていた。 景麒の女怪により陽子が呪によって狭間に囚われていると伝えられてから、一層呪の解読が先決であるとの共通認識が持たれた為である。 「峰明(ほうめい)、かけられている呪の数が判明したとか」 「僑可(きょうか)様」 冬官府最奥の一角にその部屋はあった。 呪を専門に扱う官吏が詰めるその部屋は、不用意に誰でもが立ち入る事の出来る場所ではなかった。王・台輔・三公並びに冬官長のみが入室を許可されている。 峰明はこの部屋に詰める官吏、僑可は冬官長である。 峰明は己の顎に手を添えつつ一声唸った…彼が物を考える時は決まってこの体勢になる事を僑可は熟知していた。 「正直、これって"呪"と言えるのかどうかも怪しい物なんです」 「どういう意味だ?」 峰明は目の前に据えられた要石に一瞥をくれると、手近の書卓に並べられた書を手に取った。 「これは昨晩遅くに地官府より届いた書状です。和州ダムの建設時についての事柄を集めた書から必要と思われる点を抜き出してもらった物でございます」 広げられた書状には工事に携わっていた人足達が書き残した瑣末な日誌の書き抜きのような物、要石を切り出した経緯やそれを加工した工夫についての事柄、実際に要石を組み込んだ時の事柄など…全て要石に関する物ばかりであった。 「で、ここに面白い事が書かれております」 峰明が指差す行に僑可は視線を注ぐ。 「これは実際の工事現場で夫役として働いていた人足達が日誌のように書き残していた物なんですが、問題はここです」 『赤楽二十八年六月。和州治水工事現場にて。 要石の切出し、恙無く終わる。延の技師慶の技師共に之を慶び、小さな郊祀をす。』 「小さな…郊祀?」 「ええ。詳しい内容をこの文から読み取るのは難しいですが、実際にその場に立ち会った和州の地官よりその時の内容を青鳥で飛ばしてもらいました」 目の前の鳥篭から1羽の鳥を己の指に乗らせた。 王の使う青鳥とは違い、通常的に各州毎急ぎ要件の遣り取りをする為の鳥。 余り大量の記録は出来ないが、それでも文書の遣り取りをするよりは遥かに短時間で済む。 小さな頭を反対の指で一撫ですると、峰明の指先の鳥は太い男の声を発し始めた。 『…あの小さな郊祀の事は今でもよく覚えております。 工事も佳境に入り、ダムの璧壁は己の役目が果たせる日がくるのを今か今かと待っているように聳え立っておりましたから。 要石とは、御存知やと思われますが璧組みの建築物を作るときに要となる、その名の通りの役目を果たす璧でございます。和州ダムのように緩い弧を描くような建築物の璧組みは、その1つ1つもまた緩い弧を持って組まれていくのです。 最後に嵌め込む要石が既に組まれている璧組みと隙間無く密着し、"そこにはこの璧しか入らない"程の精巧さで組まれた時、やっとそれは完成したと言えるのです。 要石は弧を描く璧組みの、弧にかかる力を一手に引き受けます。故に隙間があればその力は均衡を失い崩れる。 故に要石の存在は工事を完成させる為に尤も重要であり、要石の精度もまた重要視されております。 殆どの璧組みは終わり、残すは要石の切出しと加工、要石の組込みという時でございました。 要石にかかる力というものはとても巨大な物でありますので、出来るだけ強度の高い璧を削りださねばなりませんでした。 硬い璧だけに削りだすにもかなりの時間を伴いました。延より派遣された技師等に指示を仰ぎつつ、工夫を重ね懸命に切出し作業を行う慶の民の姿は誇らしく…。 切出し作業だけに費やされた日数は10日。巨大な璧の塊を見上げ、この工事に携わってきた人々は工事の完成を思い歓喜の声を挙げたのでございます。 郊祀を行おうと言い出したのは確か延の技師だったのではないかと記憶しております。 これから要石になるという巨大な璧を切出したばかり、この後に適切な形に削り加工し、そこにしか収まらない場所に組み込んで全てが終わるのでございます。 手間隙かけて作り上げてきた璧壁が末永くそびえ続けるように、この璧の塊が本来の役目を果たすように祈りを込めようと…そんな理由でありましたか。 実際延国では大規模な事業を行う時には必ず要石を祀るそうでございますから、否やを唱える者もございませんでしたし。何よりも正式な郊祀ではなく、どちらかと言えば祝いに近い物で実際に現場で携わってきた工夫らを労う意味合いが深いと聞及びそれならばと許可を致した次第でありました。 実際に何をしたかと申せば、工事に携わってきた人々が切出した璧に触れ、これから要石として末永く役目を果たせるようにと各々が祈りを込めていくという簡単な物でございました。 勿論、私も祈りを込めさせて頂きました。合水沿いに住まう民が渇水や増水という水の脅威にさらされないように、平らな日々を送れますようにと。 最後に延の技師長が御神酒として杯1杯の清酒を璧にかけその郊祀は終わりました。 これがその時行われた郊祀の全てでございます…』 そこまで発すると鳥は峰明の指先をツっと突付いた。 労えとばかりに催促するは錫の粒。鸞とは違いさすがに銀ではない。「わかったわかった」と促されるまま鳥の嘴へと峰明は錫粒を3回運んでやった。 「台輔が仰っていた"祈りのようなもの"という正体はこれの事か」 「そう思われます。複数の人間が携わっているかもしれないという言葉もこれによって解決されるかと」 「ふむ…"呪"ではないのだな、この祈り自体は。しかしそれではいつ本来の"呪"、主上を狭間へと捕える程の強い呪がかけられたのかは…」 僑可は広げられたままの書状へと視線を走らせた。 延国より派遣されてきた技師及び官吏の一覧に視点を寄せる。 「これらの中に疑わしき者は?」 「今の時点では判別つきません。浩瀚様より延の地官府へ向けて調査の旨を既に伝えてある御様子、青鳥が届くのを待たねばなりません」 「八方塞か」 僑可は小さな息を吐く。 この6日で己等が理解できた事はまだこれ程少ないのかと。 日に何度か冢宰府で催される合議では、現在判明している事を確認しあう作業が専らでこれといった進展はどの府第からも挙がってきてはいなかった。勿論それは冬官府も同じで。 今できる事をこつこつと積み重ねていかねばならないのは判っているのだが、出来る事自体が余りにも少なく…不甲斐なさばかりが目に付き、焦るなと自制を課しても時が過ぎて行く現実を前にすると…歯痒かった。 こつこつと積み重ねる… 「成る程…"こつこつと"か」 「僑可様?」 訝しげに問う峰明に向けて僑可は鮮やかな笑みを浮かべた。 男である峰明ですら見惚れてしまう美笑。しかしこのような表情を僑可が浮かべる時には何がしかの方策が見つかったという証拠である事も峰明は心得ていた。 「目の付け所を間違えておったのだな。上手く"郊祀"を使われてしまったのだよ、峰明」 「あ、成る程。納得いきました」 峰明も負けず劣らず爽やかな笑みを浮かべた。 「呪を施した者は、要石に対して必ず小さな郊祀が行われる事を知っていた。これは延国では常識となっている事柄である。 郊祀というには余りにも素朴な物で、その行為自体に郊祀としての意味合いは限りなく薄い…しかしながら籠められる思いというものは格段に大きいのだな」 「そうでございますね。呪というものは本来、呪を如く者の思いの強さに比例して力を増すもの。今回は郊祀に便乗して、そこで籠められた人々の思いを呪の力として変換したのでありましょう」 「そうなると…これはかなり前から計られていたものという事になるぞ」 「確か本式に延国との技術供与の契りが結ばれたのは赤楽12年の秋。今より16年も遡りますか…」 「その頃より現在まで和州ダム建設に携わり続けていた者を辿る。少なくとも調べるべき頭数がこれでかなり限定されたのだ。6日間の成果としては悪くはないであろう」 「はい」 「取り急ぎ浩瀚殿にこの旨お伝えしに参る。峰明は今も生きている呪を辿る方策を引き続き模索せよ」 「それにつきましては多少妙案を思い付きました。延台輔がお戻りになられれば執り行えます」 「承知した」 僑可が急ぎ冬官府を後にすると、残された峰明は物言わぬ要石に向って呟いた。 「そろそろ我らの主を帰してもらいましょうね…慶の民を舐めてもらっては困ります」 まるで宣戦布告のようであった。 「…ほぅ、16年も前から仕組まれていた物であると?」 「そのように考えられます。確か延国との技術供与の契りが結ばれた折に、わずかながら主上に叛意を示す輩がおったと私は記憶しておりますが」 冢宰府に辿り着くと、僑可は浩瀚へ向けて冬官府で判明した事実を掻い摘んで説明した。 「確かに。表立った動きはなかったものの、地官府からわずかな謀反の兆しがあったのは事実。元々主上の蓬莱風の物の捉え方に疑問を持つ者は地官府以外でも見て取れたが。 自国の官吏より他国の官吏を当てにするのかと…己の力量不足を省みる事なく別の方向へと非難を向けるとは笑止と、私が躊躇なく切って捨てたからよく覚えている」 「それでは謀反に携わろうとした輩の処分は既に充分にされておられるのでございますね?」 「勿論。根が蔓延る前に完全に摘みとる作業は確実に遂行せねば」 「成る程。では今回の件に限ってはあくまで"和州ダム建設に16年前から携わっている者"と断定しても構いませんね」 「そう捉えていいかと」 「そうなりますと地官府の出番ですか。当時から残る記録を当たって現在まで関係していた官吏を洗いませんと」 「既に地官府より和州ダム建設関係官吏についての調べは挙がってきておる」 さすがに仕事が速い…伊達に『慶国の智宝』と浩瀚が謳われている訳ではないと僑可は改めて納得した。 「それと…判明した事実から鑑みまして、主上を狭間へと捕えている呪は実は然程強力なものではないであろうとも推測できます」 「"郊祀の祈り"を呪へと変換させているからか?」 「はい。今回呪を如いた者は知略に優れております。 呪という物は如いた者の思いの強さによって、かけられた代償の大きさによって強さが決まりますから。己に課される代償は最低限に抑え、恨咀から辿られるという危険を回避しようとしている。 そして、慶と延の内情に実に詳しい事が何よりも忌々しき事かと」 「お前を以ってしてもどのような輩が携わっているかわからぬか…」 「私などそこらに転がる礫と同じようなものでございますよ。台輔は何やら感じ入る所があるようでございますが」 「所詮人に理解できる物なぞその程度であるのか…そうとは思いたくないものだが」 「我々にしか出来ぬ事という物もございますから、そのように悲観されるのは無用かと」 「そうであるな…」 互いに苦笑を浮かべ、新たに沸いた課題へと思考を移す。 「急ぎ16年前から携わる官吏の素性を調べ、延から送られてくる地官名簿と照らし合わせる。わずかでも両国にり関わり合いのある官吏が発見できればそれが糸口となるであろう」 「はい」 「失礼致します。延台輔が御帰還なされました」 「お戻りになられたか。私にもまだ残された仕事がございます故失礼仕ります」 「わかった」 女官による延麒帰還の先触れを期に僑可は冢宰府を後にした。 浩瀚は蓬廬宮へと向っているであろう景麒に向けて書状を認めた。 「重朔、これを台輔へと届けてもらいたい」 『御意』 青鳥を飛ばすよりも景麒の使令に託すほうが遥かに早く目的地へと届く。 浩瀚の足元から姿を表した重朔は文箱を手に取るとスルリと再び足元へと溶けていった。 「後は延よりの地官名簿の照合と、二声氏の調べか…」 景麒の沙汰により、事件が起きた日、どのように金波宮内へ情報が広がっていったかの検分が密かに行われた。 面白い事に各官府ほぼ同じ時刻、"和州にて何事か起きたらしい"との噂が流れたという調書が浩瀚の元へと届けられたのだった。 最初に噂を聞きつけたのは各官府付きの奚・奄で、一様に『走馬廊にて話し声を聞いた』と口を揃えた。 内容が内容である為、上役である女官に恐れながらも訊ねたのが噂の始まりという結論が出された。 実際に陽子の姿が消えたのは正午過ぎ。金波宮内にて噂が波及し始めたのはその刻限よりも前であったという事実から、『走馬廊で話していた輩』によって画策されたとの推測が立ったのだが。 唯一例外が認められる筈なのに例外ではなかった場所が1箇所だけあった…梧桐宮である。 各官府は外宮に位置しており、それなりの広さ・距離はあるものの1度噂を撒いてしまえばある意味容易に伝わる。 しかしながら梧桐宮は燕寝の西宮にあり、金波宮の最奥に位置する。 燕寝は通常、王・王の親族のみ立ち入る事が許される場所。今王である陽子に親族はいない為、燕寝自体は西宮を残し全ての宮が封鎖されていた。 必然、燕寝へ梧桐宮へと立ち入るのは梧桐宮に務める官吏・女官・奄奚のみ。 春官府より届けられた調書には梧桐宮についても"噂は流れた"との記載がされていた…。 燕寝は特に厳しく守られた場所。立ち入る為にはいくつもの門を潜り、その都度門番に己の素性を明らかにし立ち入る目的を告げねばならない。 そのような場所にまで侵入が可能である敵が間違い無く複数人存在するであろうという事実に、正直浩瀚は慄いた。 28年の間、凶事に繋がるであろう芽は確実に摘み取ってきていたつもりであった。そうであると自負してきていた事が呆気なく覆されてしまったのだ。 主を、国を守る為に、時に修羅の面を被りながら築き上げてきた"金波宮という名の安全な箱庭"が脆くも崩れ去った瞬間であった。 驕りがあったのだ。 光り輝く王を掲げる歓喜に酔い、本来重きを置かねばならない天意を己の中で蔑ろにする傾向がなかったとは言えない。 掲げる主の想いだけが全てであった。国を治めるに値すると天意を受けた主の存在を、ただ己を導く者としか受け止めてはいなかったか? それが…間違いだとは浩瀚は思っていなかった。しかしそれだけにしか至らなくなったのならば、本来目を向けるべき事柄に目を背ける要因にはならなかったとは言い切れなかった。 己の立つべき場所を浩瀚は見失ってしまったように思えた。 それは限りない喪失…主を失うと同義であった。 それでも問題は山積みである。時は止まる事を知らず流れ続ける。 犯してしまった過ちを今は振り返るべきではない。主が戻られた時にこそ、主を前にして暴かれるべきであるのだと己に言い聞かせ…浩瀚は梧桐宮で最初に噂を聞きつけたという二声氏が訪れるのを己の中の闇と戦いつつ待ち続けた。 続
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chapunの言い訳 うひゃぁ;色々と超絶捏造しまくり。(爪-爪) すいません…話をどうにも動かせなくてオリキャラまで出してしまいました。(鬱 冬官長僑可及び冬官峰明は架空のキャラです、はい; 今後もにっちもさっちもいかなくてオリキャラが飛び出す可能性5万%_| ̄|○||| しかしながら…僑可&峰明コンビは結構お気に入りなので、今後もちょくちょく出没させる予定です。 何故かわかりませんが、彼らにはワタクシの中でしっかりと設定が出来上がってしまっているからです! 彼らの過去などについてはまた別の話で。 |