廃墟と楽園 6
- 赤楽 28年 -


 「滅びし煌きの都市」
music by 海月堂様




想像以上に求めた騎影の帰還は早かった。
待ち構える人々は期待に満ち溢れ、静かな興奮が金波宮を包んでいる…遠目にもそれは痛いほど感じられて、これから告げる残酷な事実を思うと騎上の2人も頑なにならざるを得なかった。

さすがの六太も突きつけられた事実をなかなか受け止められず、普段なら即使令を主の元へと飛ばしたであろうにそれすらも覚束ない。
他国の麒麟の己がこのような状況なのに、当事者である景麒は…その心内を慮ると遣り切れない。

禁門に居並ぶ面々からは音という音が消えていた。
発せられるであろう一言に全神経を研ぎ澄ませている…その沈黙が、何よりも突き刺さる。

音も無く降り立った2人。
驃騎は景麒の足元へと溶け、たまは凱之によって厩へと連れられて行く。



何度も確認した。
呉剛門を潜る度景麒は己の本性を研ぎ澄まし、六太は邪魔をしないようただ寄り添った。
1回、2回…回数を重ねるだけ確信は深まり、景麒の醸す絶望感はいや増す。
1人で持て余す事だけはさせたくなくて、溢れる思いを只管受け止めた…六太の出来る事はその程度でしかなかったのだから。



禁門に降り立ってから景麒は瞳を閉ざし続けていた。
目の前に横たわった現実から目を背ける事は簡単…しかしそんな事をする気は毛頭無く、出来るはずもない。

主上は約束して下さった。『私の戻る場所はここにしかないのだから』と。

感じてしまった絶望感を拭う事は簡単ではない。
それでも…己だけは諦める訳にはいかないのだ。麒麟だから、台輔だから…そんな理由だけなら立ち向かう前に逃げ出している。

そうではない。それだけじゃない。
景麒の中に在る"心"というものが…あの人を失ってはならないと叫び続けているから。
今にでも口を吐きそうな想いを押さえ込むよう呼吸を整え、己自身に確認するよう1つ頷く。

迷っている暇はない。
助け出す手段なぞわかるはずもなく、何から手を付ければいいのかすら判別つかないけれど…。

求める物は1つしかない、それだけわかっていればいいのだ。



「主上は呉剛門の狭間に囚われておられます。延台輔と共に確信を得るまで確認して参りました」



告いだ言葉の後に続く衝撃を景麒は覚悟していたが…立ち竦む事だけに意識を注がねばならない程痛かった。

言葉を発せられる者は1人もおらず、延王ですら盛大な溜息を零すのみ。
与えられた衝撃に何とか堪えようとする者は浩瀚に遠甫…数える程しかいなかった。
打ちひしがれ絶望し跪く者、自然溢れる涙を止めようも無い者、その瞳に何をも映さずただ遠くを見つめる者…恐慌に晒された人とは、何と脆い生き物であろうか…。

己のしでかした愚行が生み出した嵐を受け止める事から始めなければならない。
それでも…譲れない想いがある事を、己には伝える義務がある。
王と共に国を担う一翼として、あの方をただ愛しく慕う1人の人として…。



「貴方達の抱えた痛みを甘んじて受け止める。それが私の罪だから。
しかし、"諦め"まで受け止めるのは御免だっ」



一斉に頭を上げる人々の顔を見つめて景麒は続けた。



「失う事に耐えられるのか?掲げた光りの尊さを、その意味を忘れる事などできるのか?私には…出来ない。
あの方を失うなどと認めない。私だけは認めない。
諦めるのならここから去れば宜しい。王がいない現実をただ嘆き、逃げ出せばいいでしょう。貴方達にはその権利がある、慶の民であるのだから。このような現状を生み出した私にはそんな貴方達を止める事は出来ません。
幸いにも延王君がいらっしゃる。手厚く慶の民として御国に迎え入れてもらえるでしょうとも。
ただし…現実から逃げ出した罪には追われ続ける覚悟を持ちなさい。罵る相手を間違える事は…許さない」



許さない…麒麟にあるまじき言葉であろう事は百も承知。
それでも景麒は言わずにはいられなかった。
今はまだ現実が突き付けられただけである。主を救う為に確認せねばならない現実。
まだ何もしていない。救うべき手段を講じ尽くした訳ではないのだ。
ここで諦めてしまうとは笑止千万。
主と掲げた方を、心を重ねて来た人を己から失おうとするは愚行の極み。



「あの方を"主"だと、今でも己の心に背く事なく掲げられる者は私に続きなさい。それだけです」



伝えるべき言葉は全て言い尽くしたとばかりに景麒は歩を進めた。
これ以上この場に止まる意味はないのであろう。呪のかけられた長い階段を昇る後姿にかける言葉は見つからなかった。

しばしの間、呆然と景麒の後姿を眺めていた面々は、1人、また1人と静かに景麒の後に従っていった。
一瞬でも諦めようとした己を恥じるように、それでも諦めきれない想いを抱え必死に己を鼓舞させて。
最後まで禁門に残ったのは延王、六太、門番の兵卒だけであった。

「なぁ、尚隆」
「…ん」
「今起きてる事ってさ、他人事じゃないと思うんだ。ここの常識とはかけ離れすぎてる」
「そうだな…」
「事件の対象が陽子だからとか景麒だからとか…まぁ、そこいらへんも全部ひっくるめたとこで…ほっとけないだろ?」
「…」
「天の条理が何よりも優先されるってのはここの決まりだから破る事なんかできねーけど、それでも、俺達に出来る事、俺達がやらなきゃいけない事ってあると思う。そうじゃなきゃ"鳴蝕が聞こえた"って事の理由にならねーよ。麒麟に本来備わっている力とは到底思えない」

眼下に広がる堯天の町も静まり返っている。
起こってしまった事実に、これから起こるであろう事実に構えているようだ。
しかしそれが決して拒絶ではない事に、尚隆も六太も幾許かの安堵を覚えた。

「景麒からも頭下げられただろ?なぁ、何とか言えよ?尚隆」

何も言わない尚隆に六太は苛立ちを混ぜた言葉で突っかかる。
"全く、たかが500年ちょっと持たせた国の頭に置かれてるだけだろうに"と内心零しつつ、それでも捨て置く事など出来ないと解りきってる己の心に苦笑をし、尚隆は一言呟いた。

「俺が出来る事なんか高が知れてるぞ」

六太の頭をクシャリと混ぜつつ、尚隆は広がる空を睨んだ。

"天の配剤とは、よくもまあ詭弁をぶちかましてくれるもんだな"…聞こえているであろう彼方へ向けた罵りは飲み込んで。










□■□










冢宰府へと集まった面々は誰1人欠ける事はなかった。
現状を認識した時点で打てる手段を挙げて行く。

「過去の事例から見ましても、延台輔らが感じられた鳴蝕というのは今回が初めてである事は間違いないでありましょう」
「だな。俺も伊達に500年無駄飯食ってないし、氾麟だって宗麟だって無駄に年くってねーしな」

浩瀚と六太の言に集まった人々も頷きあった。
各国の史書を当たらせていた官吏から、同じ作業を行っていた延国・範国・奏国よりの青鳥からそれは決定事項として共通認識された。

「これが元々麒麟に付与されていた能力なのか、それとも"天の配剤"ってやつで突然備わったものなのかも今は判別できんし。何よりも景麒の鳴蝕だけがそういう力を持っていたのか、景麒以外の鳴蝕でもそうなるのか…肝心の所は未だ謎だらけではあるがな」

渋い顔をして呟く尚隆に六太は嫌味を含めた言葉を投げる。

「んな事百も承知なんだよ。その"謎"ってやらを解明する為にとっとと空っぽな頭働かせやがれ」
「延台輔も延王君もそれ位にしてくだされ。仮にも隣国の王と台輔が揃っておいでになられているだけで官等は竦み上がっておるのですから。これ以上は勘弁願いたい事ですの」

ホッホッホッと軽やかな笑みを交えて諫める遠甫の姿に、居並ぶ顔が並べて安堵を浮かべたのは言うまでもなかった。

「わりぃ、苛苛しちまって。本当はお前らの方が焦ってる筈なのに…」

シュンと肩を竦めてしまった延麒を慰めるのも遠甫。

「なあに、今おかれている現状が認識できただけでも我らにとってはかなりの前進でございますよ。前例のない事ずくめではありますが、打つべき手が無くなった訳ではございますまい。いや、やるべき事がやっと見えて来たのでございますから。感謝こそすれど謝罪頂くような事は何一つございませぬ」

裏表の無い遠甫の言葉に、延麒は照れ臭そうに笑みを浮かべた。

「話を逸らしたようで申し訳ないな。とりあえず俺がここにいても出来る事なぞ高が知れてる。国に戻り王として出来る事をやる事が本分。各国との連絡、必要な手配などは任せろ。六太は置いていくから、好きなように使ってくれ」
「延王君、それでは御国の民が納得なぞしませんでしょう!」

慌てて言い添える浩瀚に鼻で笑って尚隆は言い捨てた。

「伊達に500年も国を治めていないのだがな。今更六太が多少国を空けた所で傾ぐ事もなかろう。現に500年の間半分も玉座の傍に侍っていた事なぞないのだし。実際お前達はそんな余裕風吹かせていられる場合じゃないだろう?国と国との対面を慮るのを悪く言うつもりはないが、時と場合だ、TPOだよT・P・O」

じゃあなと一言、隣国の王はふらふらと冢宰殿を後にしていった。

「全く、いい加減覚えたての蓬莱語使いたがるのはどうにかしてもらいてーよな…」

厭きれたように、それでも軽くTPOの説明をする延麒に向って浩瀚と遠甫は苦笑せざるを得なかった。
言うべき事は言い、ついでに場の雰囲気も和らげてから姿を消した延王に向って心の中で頭を下げるのは忘れずに。



「んでもって話の腰折って悪かったけど、要石にかけられていた呪に関して何か判った事はあるのか?」

漸く本筋へと戻された話に浩瀚は淀みなく答えた。

「はい。台輔直々に冬官府へとお出ましになられ、呪に詳しい官吏と共に検分に当たっておられます」
「おいおい、あいつ1人でフラフラさせといていいのかよ?正直立ってるのさえ辛いと思うぜ?」
「台輔におきましては当国における王に並びうる存在。王が不在の今、官を民を先導下さる方は台輔以外におられません」
「でも!」
「延台輔のお気持ち、判りすぎる程承知しております。当国の台輔でございます…誰よりも、慶の民である私達が心を痛めていないとは万が一にも仰らないで下さいましょう?」
「…」

ぐうの音も出せず延麒は浩瀚の視線から逃れるよう顔を背けた。

「先程延王君が代弁下さいましたが…私達には余裕がありません。前代未聞の事態であります故過去の事例から対応策を諮る事も出来ません。それでも諦める訳にはいかない。主上は生きておられるのですから!」

思いがけず声を荒げてしまった己に深く恥じ入りつつ、浩瀚はしばしの間をとって更に続けた。

「失礼仕りました…。情けない物言いではございますが、我ら官吏という者達は掲げる方が在られてこそなのでございます。
その方の為に、己の全てを捧げてこその役目でございましょう。それは王であり麒麟であり…如いては民へと繋がります。
私達が王や台輔に御仕えするように、台輔はただ王の為にあられる…今出来る事をやらずして、どのように王をお迎えすれば宜しいのでしょうか?台輔も我々も心は同じでございます」
「わかった」

立ち並ぶ人々から注がれる視線と想いの強さに、六太は己のおかれている場所を、己のすべき事を取り違えてはならないと改めて気を引き締めた。

「…呪のかけられていた要石からわずかばかりではありますが血の穢れを冬官府の官吏が見つけました。恨咀が残っておりますならば、そこから呪をかけた者へと辿る事が出来るのではないかと思ったのでございますが…。
恨咀が余りにも薄いのか、または全くと言ってよいほど恨み辛みの思いというものが含まれていないのか。呪を専門に扱う官吏でも感じ取る事が出来ませんでした。なので台輔にお出まし頂いた次第でございます」
「麒麟は恨咀に敏感に反応するからな…景麒が何も感じなかったらそっちの線から洗うのは厳しいって事か…」
「はい。しかしながら霊力甚大な生き物であるのも麒麟でございましょう。所詮"人"の延長でしかない我々には感じられない物でも台輔ならばと…」
「まぁな。何かしらの痕跡が残ってれば、特殊な能力を持った妖魔使って調べるって事も出来ない訳じゃないし」

浩瀚と六太が問答を繰り広げていると堂扉が開いた。景麒が冬官府より官吏を従えて戻ってきたのであった。
衝立の向うから現れた顔は疲労を隠し切れず、進める歩にもいつもの軽やかさは見出せなかった。

「台輔…」

遠甫に促され手近にあった椅子に腰掛けると、耐え切れずに零れた溜息に景麒は顔を顰めた…ここで己が踏ん張れなければ続く官に何を示せるであろうかと…姿勢を正し気合を入れなおす。

「要石にかけられていた呪は正直厄介な代物かと…」
「どういう意味だ?」

六太の問いに、景麒は静かに答えた。

「確かに官吏の申す通り血の穢れは私も感じました。あれだけ巧妙かつ強い呪をかけたのでありますからそれ相応の代償は必要である事も推測可能です。その割には全く恨咀が感じられない」

景麒の言を補足するように冬官が続く。

「普通"呪"を用いる場合、必ず何がしかの代償が必要になります。呪が強いものであればあるほど…例えば呪をかけた本人の髪や爪、血であったり、最悪命を代償とする事もないとは言い切れません。
代償が必要であるという事は、代償を支払った者の思いが呪に刻まれるという事です。なのに刻まれているはずの思い…今回は主上を狙った呪であったのにも関らず主上へ対する恨咀が何一つ感じられませんでした」
「なんだそりゃ?ありえねーだろそれって。陽子を狙った呪であるのは間違いないのに、血の贖いがあるにも関らず陽子への恨咀が皆無?」

居並ぶ人々がざわめく。何かがおかしい…漠然と感じる違和感が人々から落ち着きを攫っていく。

「恨咀というより…祈りや願いに近いような物が感じられるのです。正直、私も混乱しております…」



景麒は頭を左右に振りつつ、先程冬官府で感じた事を思いだしていた。

要石を前にして漸く感じられる程の弱い血の匂いだった。施された呪の強さの割には余りにも少ない。
まるで綺麗に拭い去ったように、呪の発動と共にその痕跡も流されたのか…。
傍に寄っても恨咀を感じる事はできず、ゆっくりと石に触れてみた。触れれば呪を施した者が抱いていた思いを辿れる筈。

指先から伝わってくる思いは恨咀とは程遠いもので瞠目せざるを得なかった。…恨み嫉みという負の感情より、祈りや願いに近いものだったから。
何かを期待し、その期待へ向けての喜びというのか?喜びの割には薄い幕が1枚、2枚とかかっているように曖昧としているのは何故か?複数の人物による呪なのか?複数の人物が関っているのなら、呪に刻まれた思いが複数であるのも頷ける。
意識を額に集中し、更に思いを辿ろうとした時に強い拒絶を感じた。

未だこの石には生きた呪が残っている…思いを辿られないようにか。
生きた呪があるという事は、これを跳ね返せばいい。呪を返された本人はそれ相応の報いを受ける事になるだろうが…。
これ以上思いを辿ろうとすれば、自然己に備わった絶大な霊力がかけられた呪を破ってしまうであろう事を予期し、取り急ぎそこまで理解して、景麒は冢宰府へと戻ったのであった。



「どのような種類の呪がかけられていたか冬官府が全力で調べ上げている最中です。どうやら1つ2つではなく複数の呪が絡み合っていたと思われますので解読には今しばらく時間を頂きたく」

冬官長が苦渋を浮かべて発した言葉に景麒と浩瀚と六太は頷いた。

「んじゃ俺はちっと黄海いってくるわ。黄海には血の匂いを辿る事に長けた妖魔がいるからそいつらに要石に残された血を辿らせればいいし。匂いを辿れば血が流された場所も判明する」
「宜しくお願い致します。冬官府は呪の解読を続けなさい。この呪は複数が絡み合っているのと、もしかすると呪をかけた本人も複数いるやもしれないのでそれも念頭に置いて」
「御意」
「浩瀚と遠甫、天官長と秋官長は今しばらくここに残られよ。多少気になる事があるので意見を聞きたい」
「畏まりました」
「他の者は己の持ち場に戻り通常の職務を遂行しなさい。主上はおられなくともこの国ではやらねばならない事は尽きず、民もそれを必要としているのだから。よいな?」
「「「御意」」」

六太が冢宰府を後にするのを期に、散会した。



「気になられる事とは?」

周囲が落ち着くのを待って遠甫が促した。

「白雉が堕ちていないのは誰がまず確認されたのかを知りたかったのです」

景麒の問いに浩瀚は真意を汲み取れなかった。
何が台輔の気に掛かるのか?何の問題があるのだろうか…そう思いつつも、白雉が堕ちていないと確認した時の事を思いだす。

「凱之より延台輔の使令から事件のあらましと台輔がお戻りになられるとの先触れがあったとの報せがございまして…」
「凱之を呼んでもらえるか?」
「すぐに」

控えていた官吏に凱之を呼び出す旨を伝えると、数分を待たずして凱之が訪れた。
景麒の問いに、凱之はあの時の状況を浮かべ浩瀚と共に語りだした。

「延台輔の使令が禁門に現れまして先触れをお伝えくださいました。内容が内容だっただけに、その場におりました私以外の兵卒に他言無用を言い渡すと即浩瀚様の元へ馳せ参じました」
「私は平素と同じく冢宰府にて職務を遂行しておりましたが、周囲がいつになく慌しい事に疑問を持った所で凱之が訪れたのです」
「いつになく慌しかったとは?凱之が取次ぎを立てずに参上した事で官吏が揉めたのか、それ以外で慌しさを感じたのか?」

台輔はこの辺りに引っかかりを覚えておられるのか…凱之は淀みなく答えた。

「私は禁門付きの門番ではございますが浩瀚様より非常時の冢宰府への参殿のお許しは頂いております。冢宰府の官吏及び門番もそれについては承知頂いております故、必要最低限の者には『非常時故』と伝え特に諍いなくこちらまで参上適いましたが」
「確かに、凱之が留め置こうとする門番を振り切ってこちらに向ったというのとは違いましたね…そのような慌しさではなく、私より先に周囲の者達の方が事件へといいましょうか"何かが起きている"という事に反応していたのか」
「そこだ。凱之は必要最低限、冢宰府へ赴くまでに最低限顔を合わせねばならぬ者にしか変事ありとの言を伝えておらぬのだな?」
「そうでございます。誰にでも伝えて宜しい内容ではございません。台輔がおられない現状でありますればまず冢宰にお伝えするのが先決でございましょう?」
「そうだ。ならば何故周囲の者達は変事を聞き付けておったのだ?細かい内容はともかく、何事かが起きていると認識するのは余りにも手回しが早すぎるとは思わぬか?何より冢宰である浩瀚よりも先にというのがおかしいであろう」

景麒に言われて初めて浩瀚は気が付いた。
あの時の慌しさの理由…考えてもみなかった。確かに変事を聞きつけるには早すぎる。己が何も知りえていないのにも関らず官は何に慌てていたのか?

天官・秋官・冢宰府から数人の官を呼び出し、4日前の状況を思いださせた所で浩瀚はやっと景麒の真意を汲み取った。

「…私が白雉が堕ちていないか確認しようと堂室を飛び出したのは、凱之から報せを受けてから然程時を経たずしての事と思います。走馬廊を走り出してすぐに梧桐宮の官吏の声が聞こえて…」
「私も浩瀚様の後に従っておりましたので共に聞きました…」
「"内通者"か、はてまた"呪を施した本人"なのか…金波宮の中にそのような輩がおるのは間違いないのでありましょう」

遠甫は俯きながらそう呟いた。
王の為に働く事を許された人々、それが金波宮に仕える者達である。
直接王に侍る事はなくとも王が行って来た施政を感じ、主の心を知る事が尤も身近にできたはず。己に与えられた職分を全うし王の為に働くという誇りを持つ事ができる慶の民の代表…28年の間に培われてきたであろう王と民との繋がりが一番身近であるはずの金波宮の民から感じられなかったのかと、尤も主の近く侍る事を許されてきた己等がそれを見抜く事が出来なかったという過ちを痛感した。

「あの要石には未だ生きた呪が施されております。呪を返せばかけた本人がそれ相応の報いを受ける事から犯人を特定する事も不可能ではありません。
しかしかけられている呪の強さからみて…それをやってしまえば犯人が事切れる可能性があります。それだけは避けねばなりません…主上をお救いできる可能性まで途切れてしまいますから…」

かけられた呪を解く事が出来るのはかけた本人のみ…無理にその理を捻じ曲げようとすれば、呪をかけられた人はおろか理を捻じ曲げた人もまた重大な被害を蒙る事になるから。

「…まずは今回の変事を誰がどこから知りえたのかを全官府で調べ上げる事。誰が内通者か判明していない故極秘裏に行わなければなりません。各官長は尤も信用に厚い官吏を1人選んで事を運ぶように」
「「御意」」
「浩瀚、梧桐宮の官吏の身元を明らかにしてすぐに奏上するように。それとここまでに判った事を延王君へお伝えせねばならない」
「畏まりました」
「私は今一度呉剛門を開いて主上がまだ世界の狭間に囚われたままであるか、呪が直接主上に害を及ぼしたままであるかどうかの確認をしてまいります。もし呪によって主上が狭間に囚われておいでになるならば、私にも出来る事が残されておりますから」

各々のやるべき事を確認しそれぞれの持ち場へと散り、景麒もまた呉剛門を開くべく驃騎に跨った。
音もなく飛び立ち、出来るだけ遠くへと驃騎を促す。
使令の背上で考えるのは延王が蓬廬宮へと伺いを立ててくれた際に返された玉葉の言葉。どうしても景麒には引っかかっていたのだった。

『鳴蝕と言えども蝕は蝕。なのにいずこかへ抜けた形跡は無い。故に被害もなく、鳴蝕が起きたという事実は景王が姿を消された意外、景麒が鳴蝕を起こしたと言う以外に認められない』

蝕は天変地異が一度に起こるような現象である。
雷、突風に大雨、地震に津波…それらの現象が一度に重なって起き、起こった場所からいずこかへと抜けて行くのが常。
それは常世の中だけであったり、時には蓬莱・崑崙へ向けてであったり。
抜けていかない蝕…それは蝕が起きた時点で世界の狭間へと囚われたのではないのか?囚われた蝕は抜ける事もできず主と共に掻き消えたと考えればすんなりと理解できる。
金波宮を出る前に景麒から直接延王宛に青鳥を飛ばした…"呪"というもので世界の狭間へと人を、蝕を捕える事なぞ可能であるのか?との問いを乗せて。

国の遥か東、虚海にかかる月は薄い雲に時折隠れる。
朧に光りを落とす月が鮮やかな姿を表すまで待ち、蓬莱へではなく"世界の狭間"へと続く門を景麒は開いた。

門の先にはかつて主が居た、生きていた場所…今はここにおられる。
意識を研ぎ澄まし王気を辿る…不安定な光りの道をすぐにも抜けたがる驃騎を叱咤し、主に侍っているであろう班渠の意識に景麒は語りかける。
しかし感じる王気は何かに遮られているように弱く、班渠の意識も酷く薄い。こちらの存在は感じているようだが全くといってよい程返答がない、あったとしてもそれもまた遮られているのか。
呪によって幾重にも幕がかけられているのであろうか。またはこの"狭間"という空間が持ち得る気配という物に邪魔をされているのか?
焦れた驃騎は我慢ならずに蓬莱へと続く門を潜った。妖力絶大な妖魔であるにも関らずどちらの世界にも属さない"狭間"という空間への恐怖はさすがの驃騎も拭えないようだ。

「もう1度…」

景麒の言葉に己を叱咤するよう大きく尻尾を跳ね上げると、驃騎は再び門を潜った。

今度は班渠の意識にだけ景麒は集中する。こちらの存在を班渠が感じているのは揺らめく気配の中でもわかったから。
使令は普段麒麟の影に潜み、麒麟の霊力を喰い己の霊力へと変換する。陽子の影に潜む今は充分な霊力を得られていない状態だ。
それでも強大な妖魔、自ら持つ霊力もかなりのものである。景麒から離れてもうすぐ5日…まだ大丈夫といえるはず。

『班渠…答えよ。主上は御無事か』

己の中の恐怖に必死に抗いつつ、できるだけゆっくりとした速度で飛ぶ驃騎に更に踏み止まる様指示しつつ、繰り返し班渠に語りかける景麒。
薄っすらと月へ雲が掛かる度揺らめく光りの道。途中で途切れはしないかと恐れるのは影に潜む芥瑚もまた同じで。
ぎりぎりまで恐怖と対峙し、再び常世への門を抜ける。

「もう1度だ。驃騎、芥瑚、耐えてくれ」
『…御意…』

常世と蓬莱の呉剛門を潜る度驃騎と芥瑚は不安定な狭間の恐怖に耐え、景麒は班渠に辛抱強く語りかけた。
何度目であろうか。常世の月に巨大な雲がかかろうと迫ってきていた…あの雲がかかってしまえば呉剛門も閉ざされる。
この機会では最後と己に言い聞かせ、騎影は蓬莱の門を常世へと向けて潜った。

『班渠、答えろ…』

常世の月が雲に包まれる…驃騎は焦ったが景麒は"まだ"と言う。
今にも常世へ向って走り出したいのに…。

『台輔、月が隠れます』
『班渠の意識がある事はわかりました、とにかくお戻り下さい』
『班渠、答えろ。主上は無事か!』

月が隠れる…堪りかねて常世への門を潜ろうとした時だった。
遠くから、深遠の底から響く微かな響きのように景麒の中へと聞こえる声。

『…囚われて…主上…無事…いし…』

聞き遂げる事が出来ぬまま飛び出した門は直後に閉ざされた。
厚い雲に覆われた空は今にも大粒の雨を落としそうであった。

「御無事であらせられるのだな…」

それだけが確認できただけでも今は充分だと景麒には思えた。
囚われていると班渠は伝えてきた。多分呪によるものであろう。
陽子が碧双珠を使ったとしても一月…以前功国を放浪した折の話しを景麒は聞いていたので断言できる。班渠も今の言葉を伝える為にかなりの霊力を消耗したであろうから…

何としてでも呪をかけた本人を捕えねばなるまい。一刻も早く。

先に芥瑚を金波宮へと遣わせ、景麒はそのまま蓬廬宮へと向った。
己がこれからやろうとする事が天の理に触れるかどうか…天に伺いを取るために。










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