廃墟と楽園 4
- 赤楽 28年 -


 「滅びし煌きの都市」
music by 海月堂様




目の前で突如繰り広げられた光景に、集まっていた群集はただ息を飲む事しか出来なかった。

安寧の象徴、約束された未来へと導く腕を持った美しく強い王がゆっくりと飛翔する様を疑う者などいなかった。
遠目からでも鮮やかな緋色の、豊かな髪が谷間に舞う風にゆるりと波打つ姿。真っ直ぐに上空へと注がれているであろう翡翠の瞳孔。女王とばかりに美しく着飾ってはいても侮る事などできない威厳に満ち溢れた風格。

その全てが、そこに集まる民にとって…今日という目出度い日を知る民にとって、何よりも得難かった物であったのは言うまでも無く。

なのに…

音も無く、時間の経過も感じられないようなゆるりとした速さで落ちて行く要石を、何故違和感も感じずに情景の一部として受け容れてしまったのであろうか?

それは、やっとの事で手に入れた晴着に気が付かずに付けてしまった小さな衣魚のようであった。
余りの浮かれ気分で、後々気付いた時には既に落とす事なぞ出来なくなってしまったような…。

轟音と共に崩れ落ちる璧積みと激流。
渓谷に響き渡る悲鳴のような音。

我に返った直後には…何事もなかったかのようにチョロチョロと流れ落ちる水流と破壊されたダムの残骸と思しき璧積みの残滓。

そして…璧積みが聳え立っていたであろう場所に金色の霊獣…今も尚、喩え様の無い悲哀の塊のような啼き声を朗々と響かせ続けるその姿を忘れる事の出来る者なぞいないであろう…。



「光りが…消えてしまわれた…」



誰ともなく呟かれた言葉に群集は次々と蹲り、啼き続ける霊獣の声に重なるようなすすり泣きを上げていったのであった。




赤楽28年夏。これよりしばしの間、慶東国は常闇に包まれた。











□■□










逸早く現状を再認識できたのは、哀しいかなその場で慶事を何よりも喜んでいた民だという事実に、柴望も桓魋 も虎嘯も…その場にいた王に仕える者達の誰しもが、己の胡乱さを恨んだ。

民のすすり泣く声に飛ばされかけていた意識を取り戻した虎嘯は、己の騎獣に跨り勢い陽子のいたであろう場所まで駆け寄った。
未だ陽子の半身である霊獣は、その薄紫の瞳に何をも映して居ないような様子で…何とも言えないような哀しい声で…啼いていた。

「女怪殿、おられるか?」

虎嘯は白金の霊獣の影に向かって声をかけてみた。
実際にその存在を目にした事が在る訳ではないが、それでもこの霊獣には"養い手""庇護者"であろう女怪の存在があるという事だけは知っていた。

『是』

霊獣が抱えきれずにいる感情を同じ身に引き受けているような…哀しい響きを纏った声が、虎嘯の頭の中に直接響いてきた。
思わず引き釣られそうになるが寸前の所で踏ん張り、何とか続く言葉を吐き出した。

「台輔を…安全な所へ…」

今は何よりも重要とされる事であった。
消えてしまった王を探す事は勿論ではあるのだが、それが出来るのは王の半身である麒麟に頼る事が一番なのであるから。
陽子の存在、"王気"を間違いなく感じ取れるものは、この世界には彼以外に在り得ないのである。

しばしの逡巡、微けき響きが虎嘯に再び『是』と語りかけると同時に、景麒の影の中から羽毛を纏った腕が伸ばされた。
慰撫するように、慈愛を込めた腕が景麒の鬣を優しく梳いて、何とか主の意識をこちらへ引き戻そうと試みているのがひしひしと伝わってきた。
が…霊獣の様子は全く変わらなかった。

『駄目か…』

いつの間にか虎嘯の後ろに控えるように騎獣を飛ばしてきた桓魋と視線が交わる。
本来なら公務時の王の身辺警護を司るのは虎賁氏ではあるのだろうが、当の虎賁氏は未だ魂の抜け殻のようにその場に佇む事しか出来ていなかったのだ。
多少出しゃばった真似をしたとも思ったが、事が事だけに…咎められる事を承知で虎嘯も桓魋も飛び出したのであった。
しかし我に返った虎賁氏の視線はは咎めるというよりも謝罪の意を表していた。そして虎嘯らが思っていた事を彼も感じ取っているようであった。

無言で交わされる視線。
本来なら麒麟に触れる事すら畏れ多いが…それでも場合が場合だ。
このまま景麒が女怪の言を受け容れないのであるなら、咎は後に十分過ぎる程受ける事を覚悟して力尽くでも安全な場所に移さねばならないと互いに決心しかけた時だった。

音も無く近付いて来たのは…目の前で啼き続ける人智を超えた生き物と同じ者であった。





「景麒…行こう…」






静かに、それでも確固とした意思で紡ぎだされた言葉。
薄紫の瞳に微かな揺らめきが現れた。

ゆっくりと振り返る視線の先に、己と同じ姿を持つそれを認めた瞬間。
それは…絶望に彩られた…微笑に見えた。細められた瞳の端から一筋流れ落ちた透明な雫。
それを舐め取るように鼻先を擦り寄らせるもう一つの霊獣。

もう1度、確かめるように呟かれた言葉に、景麒は1つ頷いて意識を飛ばしたのであった。

「芥瑚、驃騎!」

もう1つの霊獣が叫ぶ前に姿を現した女怪と使令が堕ちて行こうとした主の体躯をあっさりと受け止める。
その様子にわかっていたとでも言うよう1つ頷くように頭を振ると、霊獣は桓魋と虎嘯に呼びかけた。

『金波宮に戻る。今やれる事をやっとけよ…』

直接頭に響く声で言うと、するりと身を翻し脱ぎ捨てられた景麒の衣を口に咥えて戻ってきた。
芥瑚が人型に戻ってしまった景麒の体躯にそっとそれを掛けるのを見届けると、霊獣は金波宮を目指す驃騎に伴うように天を駆けて行ったのであった。





それを契機に、その場にいた者達の思考がやっとまともに動き出した。

柴望は急ぎ州城へと戻り浩瀚宛に青鳥を飛ばす。
合わせて延麒と思しき麒麟から残された使令に、その主であろう御方に宛てた書状も認めた。
起こってしまった事象と今現在の状況、今後起こるであろう事柄などである。
改めて浩瀚より青鳥が飛ばされるであろう事も見越して、事実だけを述べた。
幸いにも…この時は幸いと思われていた…白雉は鳴いていない。その事実は何よりも喜ばしく、しかしながら陽子が危機に見舞われている状況は以前変わっておらず。
心ばかりが逸るのを必死で抑えつつ、己が出来る事を粛々と遂行していく事しかできない柴望であった。

その間、禁軍空行師と和州州軍は崩れ落ちたダムの調査及び合水流域にて王の探索を進めていた。
しかし…

それはありえない事として、目の前で起こった現実として受け止めるには些かこちらの常識をも超えた作業であったのだった。
崩れ落ちたであろう璧(いし)壁の残骸が…ダムの足元を流れる合水には全くといっていい程存在しなかったのであるから。

桓魋は騎獣をダムの根元まで降ろした。見上げる場所には、本来あった璧壁は存在しない。
両端を切り立った渓谷に挟まれた場所、そこを塞止める形で作られたダムである。渓谷のど真ん中に存在するはずの璧壁は中央部分だけ綺麗に弧を描くように穿たれ、渓谷の向う側が見事に見通せる状態であったのに、だ。

本当なら合水には累々と璧壁の残骸が溢れていてもおかしくはないのに、これは一体どのような事が起きたのであろうか?
璧壁と共に流出した筈の大量の水流の痕跡すら見つける事ができないのであるのは、最早己達の理解の範疇を超えた出来事が起きたのではないか?と疑心の眼差しをどこともなく向ける事しかできないのであった。

それでも…諦める訳にはいかないのだ。
やっと掲げる事ができた主を、希望の光りを易々と失う事なぞ誰もが出来る筈はなかった。

"懐達"と、"また女王か"と登勅当初は暗に疎まれ…いや疎んで来た王。
女王に恵まれなかった数代の国暦はどん底まで国を、民を疲弊させ続けていた。その当時、桓魋が主として頂いていた浩瀚を云われの無い罪で国から遠ざけた事を呪った日々もあった。
そういう過去に囚われ現実の眼を曇らせていたのは己自身。

和州の乱で、眼を曇らせていた想いが一気に薄まっていった。そして重ねられる年月と共に根気良く布かれていった治世。
破壊され尽くした国土を、民の心を復興させるには一朝一夕にはいかない事は百も承知で、それでも真摯に心を砕く主君の姿は、直接臨む機会が殆どない民ですら感じ入る事の出来るものであった。
近くに侍る事を許された己のような軍人、官吏や国吏、国を纏めるために働く者達が感じる想いは民以上の物であるのは当たり前で。

たったの28年で…王は民の心を見事1つに纏め上げていたのである。

だから…諦めない。
陽子(光りの子)を1度でも頂いてしまった己等には、もうその光を失う事など考えられないのであるのだから…。

その後もダムの根元から合水の下流に至るまで、何度も何度も探索が行われ続けた。
しかしながら…王の存在は全く持って感じられない所か、掻き消えてしまったかのように目の前で起こった事象すらなかった事にしてしまうような様相しか見出せないのであった。

景麒が延麒と共に金波宮へ帰還してから早3日。
現場で意識を失った景麒は、今もまだ夢魔に囚われたように意識を取り戻せないままである。
幸いな事に白雉が鳴いていない事実は、探索を続ける桓魋等にも王の無事を希う民にも唯一の希望となっていた。
その事実が・・・実はこの国を常闇に落とす現実である事は、翌日意識を取り戻した王の半身から告げられた言葉で確認する事になるのであった。










□■□










同日、金波宮内殿。
主である主従の不在を任された冢宰は、日頃と同じく己の任を果たすべく冢宰府で黙々と職務を遂行している最中であった。

当初の予定より2年も早く第一期治水工事が終了した事実を、無論浩瀚も悦ばしく思っていた。
が、現実はそう甘くはない。
まだまだこの国にはやらねばならない事が山積みなのである。

登勅直後に比べれば明らかに人口は増えてきてはいるが、それでも尚手の付けられていない土地は腐るほどある。
民が増えると共に物流も頻繁になり、街道の整備も急を要する事態になってきている。
各地の義倉を満載にできるようになったのはここ数年の出来事で、まだ国が潤うというには程遠い現実。
数え上げれば切が無い。

それでも、今日と云う日だけは…主である主従に、民と共に分かち合う喜びというものの価値の重さ、有難さを実感させてやりたかったのもまた事実で。

無我夢中に走ってきていたのは誰もが同じではある。しかし抱える責の重みは…比べる事なぞ出来ない。
国の命運を一手に担うのは、紛れもなく王でありその半身である麒麟。
迷い擦れ違い、互いを傷つけあいながらも…それでも何とか手を携え在って過ぎてきた日々を浩瀚は知り尽くしていた。

何事にも真摯に向き合い妥協をする事を許さない互いに歯噛みしつつ、己の立つ場所を見失う事はないながらも指し示す未来を時には疑い、思うように立ち行かない現実に苛立ち途方に暮れる姿を知っていた。
それでも、進まずには居られない己の運命を呪うことなく、真っ直ぐな道を築いていく姿を…何度羨望の眼差しで見つめたであろうか。

私が望んでいた王が…請い希っていた主の到来を、どれ程己が歓喜していた事かと。
傲慢な考えである事は十分承知している、しかしこの想いは紛れも無い真実であるのだ。

不器用ながら必死で前を進む主達を、ささやかながらも支える事が出来る僥倖は浩瀚の中で未だ薄れる事はない。
そんな主達が、やっと何かを形に出来たと思えるだろう事が…このダムの完成である。

最初は陽子だけが郊祀に参上する手筈を浩瀚は整えていたのだが、それでは半身である台輔を蔑ろにしているような気がしてならなくなった。
王と麒麟は一身一体、互いの半身である。王の喜びは台輔である麒麟の喜びにも繋がる。
ただ王の為だけに生まれ、王の為に生きる霊獣。何よりも王と共に在る事を最大の喜びとする生き物なのに、いくら慶事とは言え切り離すような事をするのは…普段の浩瀚からは考えられない程感情的になっていた。

本来、王と台輔が共に宮殿から離れるのは好ましくない事ではあるのだが…真面目ではあるがこちらの感覚とは些か変わった思考を持つの主に事ある毎に振り回されている半身に、時には御褒美?を差し上げてもまずくはないであろうと…情心を持ち出したのである。

陽子が旅立った直後、浩瀚は密やかに景麒の耳元で囁いたのであった。
未だ主が飛び立った方角を遠い目で眺め遣るその姿が余りにも寂しげで、共に見送った官吏達もそんな景麒の姿を見て少なからず心を痛めている事を浩瀚は感じ取っていたから。

既に遠甫や主な官吏には了解を取り付けてあったので、臆する事なく浩瀚はその言葉を口にした。

「いってらっしゃいませ。台輔」

ビクッっと、誰しもがわかるような形で驚く肩を見て、浩瀚は薄く笑みを浮かべた。

「主上の喜びは台輔の喜びでもあるのですから、一緒に祝典に参列なさいませ。主上がおわし麒麟がおわす。それ即ち国の安寧を司ります。お二人の御姿を揃って民の前に示す事に何の問題がございましょうか?いや、寧ろ悦ばしい事ではございませんか?」
「しかし…」

浩瀚の顔を真っ直ぐ見つめつつ、それでも景麒は素直に頷かなかった。
実直にすぎる性格が、己の責務を蔑ろにする事を、主従揃って宮殿を留守にする事を是としなかったのであろう。

実際は台輔としての、瑛州候としての職務を放棄する訳ではないのである。瑛州と和州の境目(比較的和州寄りではあるが)に建設されたダムである。
瑛州候として郊祀の席で直接王に礼を述べるのは真っ当至極であるし、台輔としての職務を言うなら、王の隣に侍る事こそ麒麟として尤も重要視される職務の1つであるのだから。

国の要が揃って国府を留守にする事が問題ないとは言い切れないが、たった2日の事。
どこかの隣国の主従と比べるのは些か難有りではあろうが、視察を兼ねているのであるから問題なかろう。

一瞬の内にそれだけの事を浩瀚は頭の中で纏め上げ景麒に付け入る隙を与えずに捲し立てると、渋々ながら頷いたのであった。
浩瀚と景麒の遣り取りを見守っていた官吏達も、安堵の溜息を一斉に、しかし景麒の耳には届かないよう心の中で吐き出していたのは秘密であるのだが…。

「ついでにといっては語弊がありましょうが、この所休みもなく働き続けていらっしゃる事実を踏まえて、ほんの僅かばかりではございますが休日を取られてもよろしいかと」

何事もないように、にっこりと確信犯的な笑みを浮かべながらあっさりと言いのける浩瀚に、薄ら寒いような感情を抱いた官吏が少なくなかった事も敢えて記しておこう。

「わかった…本日の政務を終えた後出立させていただく」

うっすらと顔を赤く染め上げて何とか搾り出したような景麒の返答に、今度こそ晴れやかな笑顔で浩瀚は1つ頷いたのであった…。
"本日の政務を終えた後"という件が、また景麒の真面目さを表す一言であったのが余計好ましく思えたのは言うまでも無かった。



しかし、今となっては浩瀚としては"英断"に近い申し出が…仇となってしまったとは…。



いつもとは違う慌しさで人々が動き回る気配に柳眉を顰めたのと、書房の堂扉が不躾に大きく開かれたのがほぼ同時。

「冢宰殿、火急の用件にて不躾極まりない入室お詫び申し上げる」
「何事だ?」

勤めて冷静であろうと振る舞うように、ゆっくりと腰掛けていた椅子から浩瀚は立ち上がる。
飛び込んで来たのは禁門を預かる禁軍左軍所属の門闕、凱之であった。
色を失った凱之の顔色を見遣っても、何故か浩瀚は最悪の事態だけは想定できなかった。
必死に息を整えると、凱之は思い切ったように言った。

「和州ダム完成郊祀の席にて凶事発生したり。主上は御姿が未だ確認できず、台輔も意識を失われておられる御様子。ただ今台輔の女怪・使令と延台輔で金波宮に帰還途中であるとの先触れでございます」
「何だって…?」

目の前が一気に暗転するような感覚に、浩瀚は怯む己の足腰を叱咤して必死に踏み止まった。
何を己は間違えてしまったのであろう…瞬時に巡る思考に囚われそうになるが、今はそんな事をしている場合ではない。
咄嗟に浩瀚は叫ぶ。

「白雉は?!」

白雉…梧桐宮に棲む霊鳥。別名「二声」。
王の登勅の折に一声、そして…王が身罷った折に二声…末声を挙げる為だけに、ただそれだけの為に生きる鳥。

急ぎ確認に向うべく走る走馬廊上で、変事を聞きつけたのであろう梧桐宮を預かる二声氏が大声を上げた。



「未だ末声は聞こえておりませぬ!!!」



その一声に、どれだけの者が安堵の溜息を洩らした事であろうか。浩瀚もまたその中の1人であったのだが。
急ぎ冢宰府に主要な官吏を集め、現状と現場の確認、すぐに戻るであろう景麒を向える準備を整える。
郊祀の最中の出来事だ。既に話は人を介し、かなりの速度で広がっているであろう事は想像に難くない。
既に国府内では公然の事実として認められ、国府に身を置く者全てがこの現実に立ち向かうべく、己の役割を見極める作業に突入している時点で、民の間に拡大するのも時間の問題と思われた。

本来ならば伏せられる凶事ではあるが、今回ばかりはそのように取り計る訳にはいかない。
実際、多くの民がその現場を目撃している事実に蓋をする事は出来ないのであるから。
速やかに主の無事を確認し、御身の確保を先決させなければ。
それと同時に…やっと築き上げられた王への信頼を民から失わせない為にも、最善の策を講ぜねばなるまい。

浩瀚が口を開こうとした時、台輔帰還の報せが届いた。
取り急ぎ遠甫と2人、景麒が戻った仁重殿へと向った。





横たわる景麒の顔に色はなかった…血の気の引いたその顔色は麒麟特有の病に臥せっているように見えて、浩瀚は一瞬景麒から視線を逸らせてしまった。
『案ずる事はない。末声は響いておらぬのだから』
そう必死に自分に言い聞かせ、横たわる台輔に寄り添う女怪ともう1つの麒麟に向って深々と頭を垂れた。

「延台輔とお見受け致すが、さすがに拙も麒麟の御身をそうそう見極められぬ若輩の身。訊ねる無礼お許し頂きたい」

遠甫がそう切り出すと、頷くように霊獣は頭を1つ振るわせた。
それを見遣ると、浩瀚は必要な言葉を紡ぎだした。

「延台輔におかれましては、当国の凶事であるにも関らず火急参上頂けました事、主上と台輔に代わり心より御礼申し上げます」
『堅い事言ってる場合じゃないだろ。そんなのは後でいくらでも聞いてやる』

真っ直ぐに注がれる紫の瞳に改めて頭を垂れた浩瀚は、単刀直入に延麒へと己の意を投げかけた。

「白雉は堕ちておりませぬ」
『知ってる』

あっさりそう言うと、延麒は『芥瑚』と一声かけ、景麒の女怪の手から己の女怪へと着物を渡させると、一瞬後に人型へと姿を変えた。
軽く羅衫を羽織ると、景麒の眠る臥室を出て言った。

静々と浩瀚と遠甫は後へ続く。仁重殿よりそう離れていない庭院の一つで延麒は立ち止まった。
設えられた路亭の中へと入ると、大きく1つ息を吐き浩瀚と遠甫を中へ入るように促した。
無言で茶の用意をする女官が下がったのを期に、延麒は「何から話せばいいんだか…」と盛大に溜息を零してから話し始めた。



「珍しく…自分で言うのもあれなんだが…尚隆と一緒に朝議に行ってたんだよ。偶にはいってやんねーとうちの馬鹿官吏から突き上げ食らうし。
特別変わりがあった訳じゃない。どこの国だろうと朝議なんかそんなもんだと思う程度だ。
だけど…突然、ほんと突然聞こえた。
俺、500年の間無駄に生きてきた気がしないでもないけど…それでも初めてだったんだよ。あんな声が聞こえたの」

目の前の霊獣は堪らないという気持ちを隠すでもなく全身で表していた。
自国の麒麟とは全く逆である。
延麒が何かに踏ん切りをつけるのをただ静かに浩瀚と遠甫は待った。

「鳴蝕…だって、すぐにわかったんだ…」

やっと搾り出したであろう声は涙に縁取られ、最後は途切れ途切れに聞こえた。

「泰麒の時はわかんなかったのに…何で聞こえるんだって最初は思ったけど…俺の知らないとこで…どっかの国の麒麟が鳴いてるって…そうわかっちまったら…たまんなくなった…」

大きく見開かれた瞳から溢れる涙を拭う事なく淡々と語り続ける延麒の姿に、浩瀚は仰向いて嘆息し、遠甫はただ真っ直ぐに視線を注ぎ続けていた。

「…呼ばれた…気がしたんだ…そう思ったらもう我慢できなくてっ…尚隆んとこに悧角置いてくんのが精一杯だった…たまんなくて、呼ぶ声が余りにも…哀しくて。気が付いたら無我夢中で走ってた…」

噛締められた延麒の下口唇は色を失って、今にも切れてしまいそうだった。
延麒が感じた"それ"を、人は感じる事なぞできないであろう。
同属だからこそ感じられたその感情とも波動とも言えない物は、己が主を慮る気持ちを一瞬でも隅に追いやるほど強く、延麒の心を占めてしまったのは今の告白から容易に感じ取れた。
そして、そうあってしまった己自身に後ろめたさを感じている延麒の心も垣間見てしまったようで…浩瀚も遠甫も何も言えなかったのであった。
それが自国の麒麟が起こした事象であるのが確かなだけに余計。

「声が聞こえる方向へ…ただ只管進んでった…そしたら、そしたら…何で選りによって景麒なんだよ!!!」

ドンッっと大きく両手を卓子について延麒は叫んだ。

「やっとだぞ?やっと己の主を見つけて、国を見守り育てる意味を…やっと創めたばかりだろ?予王の時に散々痛めつけられて、陽子を主としてから、やっと…あいつにも安らげる場所が見つかったってのに…自分の国の事だ、お前らなら痛いほどわかってるだろ?!」
「延台輔…」

遠甫は尚も卓子に叩き続けられている延麒の拳を静かに、ゆっくりと己の掌で包んだ。
包んだ小さな拳は小刻みに震えている。
己が麒麟であったが為に感じた痛みに、麒麟でしかわからない哀しみに、心が悲鳴を上げているのが見て取れた。
"仁の生き物とは良くぞ言ったものである…"心の中で遠甫は呟く。それは決して褒めそやす意味ではなくて。
皺枯れた遠甫の肌に、後から後から延麒の涙が落ちてきた。

「我らが感じる事が出来ない想いを…貴方様は受け止めて下さった。我ら慶の民の代わりに之ほどまでに御心を傷めて下さっている…仁の生き物とは、辛い道でありましょうな…」

淡々と呟かれた遠甫の言葉に延麒は1つコクンと頷くと、あとはもう泣きじゃくる事しか出来なかった。
延麒の影から現れた女怪がその細い肩を抱き寄せ、宥めすかす姿を見届けると、浩瀚と遠甫は深々と頭を垂れてその場を辞した。










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