廃墟と楽園 2
- 赤楽 28年 -


 「滅びし煌きの都市」
music by 海月堂様





「民が戻っているね」



金波宮を後にして数刻、穏やかな雲海の上を陽子らは和州州城に向かって飛び続けていた。
眼下に広がる雲海の、そのまた遥かに下方。一面緑で覆い尽くされた大地を見るともなく見て陽子は呟いた。

「確かに。あの頃に比べたら雲泥の差だな。これが玉座に王がおわすって意味なんだろうな〜」
「そうだな。"王"という絶対の存在があっての事。王がいてこそ、民は王の存在に限りない信頼を寄せ、安寧を約束されたと希望を胸に抱く事ができるのだから」
「そんな大層な存在かな、王とは。でも…それが真実であるのなら…私は王になって良かったな…」

穏やかに微笑む主を見て、禁軍左将軍桓魋と大僕虎嘯は人の良さそうな笑みを浮かべた。



今回の視察に当初陽子は「随伴は最小限にしてくれ」と言募った。
赤楽朝として28年、初期にはさすがにそれなりの動乱を伴いもしたが、ここ数年は表立って王に叛意を示すような動きは見られなかったからである。
和州の乱から25年、州侯は慶国冢宰である浩瀚が尤も信頼を篤く寄せる柴望が任命されているのだし、靖共の残党も 秋官府の執拗な追跡によりほぼ壊滅されたという。

それでも浩瀚と景麒は禁軍を伴う事が条件だと一歩も引かなかったのである。



『主上はいつになったら御身の大切さを鑑みて下さるのでしょうか…』

盛大な溜息をこれ見よがしに吐くのは言わずもがな景麒。
その姿を見て苦笑を洩らしつつ、それでも真面目に浩瀚は言ったのである。

『これは王の威厳を民に知らしめる為にも必要な事なのですよ。御身自ら視察に訪れてくださる事は勿論民にとって喜ばしい事この上ない事実でございます。が、偶には"これが王である"という威厳を身近で民に感じさせる事もなくてはなりません。』
『そんなものかな?』
『『そのようなものでございます』』

口を揃えて言う浩瀚と景麒の迫力に押されて、思わず陽子は頷いてしまったのであった。



そういう訳で、禁軍左軍空行師一卒と大僕を引き連れての大所帯となってしまったのである。
しかしながら陽子は簡単に二人の言を受け容れていたのではない。
あそこまで執拗に食い下がる姿には良いも悪いも必然的に「裏がある」と思えて仕方が無いから。

別に景麒と浩瀚を信用していないという訳ではない。そうではなくて…信用しているからこその勘とでも言えばいいのか。
言外に含まれた意味を陽子はつらつらと考えてはみたが、今の所一向に思い当たる節が見当たらなかった。



「行けばわかる…そういう類のものなのだろうな」



誰にとは無く呟かれた声は、雲海を渡る風に溶けて周囲の者の耳に届くことはなかった。










□■□










和州凌雲山の禁門。
陽子を筆頭に随伴の者達が降り立つと、温かな笑顔が迎えてくれた。

「空路遙々御越し下さいました事、一同心より感謝申し上げます」

初勅に障りのない程度に、それでも慇懃に頭を垂れる人々。

「久しいな、柴望」
「主上におかれましては御健勝の事、何よりでございます」

尚も言葉を続けようとする柴望に、陽子はイヤイヤをするように片手を左右にひらひらと振った。

「堅い挨拶はそれくらいにしてくれ。久しぶりに景麒から離れて息抜き出来そうだというのに、これでは金波宮にいるのと大差ないではないか」
「またそのような御戯れを」

クツクツと喉を鳴らして微笑う柴望の姿に、周囲を取り巻く閽人やら官吏達も一緒になってクスクスと笑う。

「まあよい。皆も健勝のようで何よりだ。忙しい中出迎えご苦労である」

気さくに言葉を放つ王の姿に居並ぶ一同皆素直に喜色を浮かべた。
胎果である陽子は特に身分という物を鑑みない。初勅を見ても分かるように。
始めは慣れぬ伏礼廃止という勅令に戸惑ってはいたものの、二十数年の間にゆっくりと、その意味を噛締めるような速度で馴染んでいったのである。
意味を与えられたものとして受け止めるのではなく、己の意思として受け止める事の出来た者達にとって、陽子という王の存在は何者にも代え難いものに自然となっていったのだった。

「雲海上とはいえ今は夏。主上もお疲れの事と存じます。まずは御身体を御休めくださいませ」
「うん、随伴の者達も暑気を浴びている事だろうし。今日は素直にそうさせてもらうよ」

自らの事より随伴の者達へまず先に思い遣りを見せる陽子に、柴望は改めて喜色に目を細めた。



通された堂室で陽子が一心地つくと、しばらくして王を向かえる宴が催された。
28年経ってはみたものの、慶はまだまだ他国に比べれば貧しい。
それでも心尽くしの料理に舌鼓を打ち、滅多に口にしない酒を嗜みつつ陽子は楽しい一時を過ごした。

そう、これは陽子を歓迎する為の宴ではあったが、今回の治水事業に携わった人々へのささやかな労いの場でもあったから。

何も治水事業は今に始まった事ではない。
予王時代に疲弊しきった民と国にはろくな灌漑・治水設備等なかったのである。あったとしても瓦礫と化したのが殆ど。陽子が王として玉座について即座に頭を悩ませたのはこの件についてであったのは言うまでもないであろう。

王が玉座につけば妖魔は跋扈しなくなり、気候もそれまでとは比べ物にならない程安定する。
それ即ち民が戻ってくるという事である。
戻ってきた民が暮らしていく為にはまず土地と水が必要だ。土地を耕し水で土地を潤す、種を蒔き育て己の食い扶持を得る事が生きて行く事に直結するのだから。

幸か不幸か…荒廃に揺れた国土には余りある程土地がある。
府第さえ機能すれば、公田交付は即座に可能・・・となると、後の問題は"水"であった。

しかしながらこれは一筋縄で行く問題でもない。
国土を巡る河川はそういくつもあるものではなく、上流から下流にかけて数州にまたがっているのも事実。
まずどこから先に着手するかで揉め、工事の内容で揉め、実際の工事現場でも揉め…何よりも揉め事が絶えない議題であった。

州侯は口々にこう言う。『まず我が州から』と。
民を思えばこその発言ではあるが、それを押並べて聞いていては立つはずの方針も立たなくなる。
苦渋の決断だったとは言え、陽子は『私に全てを任せて欲しい』と、口を開けば言い争う州侯や官吏を無理矢理押さえつけるような形で一番最初の治水工事の決裁を陽子はしたのであった。

あれから28年。必要・不必要な物を吟味し取捨選択しつつ少しずつ進めてきた治水・灌漑第一期工事も時を重ねる毎に意味をなし、形を作り、概ねの州侯が納得いくものになりつつあり。
その総決算がここ和州のダム建設であったのである。

合水は比較的流れの速い河川である。瑛州と和州を挟んで流れるこの河川は慶国最大最長。この川から恵みを受ける州は国内最大数。
しかしながら流れが速い事が災いしてか雨季には大氾濫、乾季には下流の州まで水が届かないという不都合もあったのだった。
そこで陽子はダム建設の提案をしたのである。
慶国最大の水消費量を誇る堯天を抱える瑛州と合水を挟む和州との間にまずは巨大なダムを作り、その下流には一定の距離を開けつつ小規模なダムと溜池を設置。
出水量の調節は下流の溜池の貯水量を比べつつ行えば合水沿いの各州に安定した水の供給が可能であると踏んでの事だった。

計画自体は内容の濃い物であったし、異論を唱える官吏も少なかった。が、慶はとにかく貧しかった。
各地の義倉を埋める事すらできない現状が計画の遂行を妨げると思われたが、そこはそれ。
隣接するは500年にも及ぶ王朝を築き上げた雁州国。延主従との関係は今更言うまでもない。
数年来豊作続きで価格操作に手を拱いていたという穀物を格安で譲り受ける事・技術提供協定が可能になると、一気に計画は現実の物となったのであった…。

陽子の宣で無礼講となると、短いようで長かった道程をおおはしゃぎで喜ぶ者、感慨に耽る者、淡々と現実を噛締める者…それぞれにここまで辿り着けた事を分かち合っていた。

そんな官達の姿を視界に納めては微笑ましく思いつつ、翌朝はダムの完成式典を控えているという事で、陽子が退席するのを境に夜半前に宴は幕を下ろした。





「少し酔ったかな…夜風が気持ちいいや」

皆が寝静まったをの見計らって、陽子は一足先に出来上がったダムを眺めに来ていた。
日頃飲み慣れていない酒を嗜んでいるのだから普段なら堂室に戻ると牀に倒れこむなり眠りに落ちるというのに、今日は何故か睡魔が襲ってこない。

「思っていた以上に私もこれの完成を喜んでいるという事だろうな」

興奮しているのだろう。当たり前の事とはいえど、陽子にとって"王として成し遂げた"と思える事業はこれが初めてであるのだから。
見上げたダムの高さは凡そ20丈程。堅牢な璧(いし)組みで築き上げられたそれは見る者を圧倒した。

「やはり延から技術提供をしてもらった事は大きな意味があったな」

延の石工技術の高さは十二国随一と言われている。実際陽子も延に何度も赴いていて、その技術水準の高さには目を見張っていた。
しかし、普通ならこれ程の一大事業にもなれば金銭の授受が発生するはず。なのに「あくまでも技術提供」という形に収めてくれたのは延主従を始め延国府で働く陽子も良く見知った官吏達の並々ならぬ協力があってこそだった。
技術提供とはいっても延国の技師達が全てを請け負って作った訳ではない。慶の技師達に指導し、手本を見せ、「慶の民が作り上げた物」という体裁と技術の伝授を心がけてくれたのである。

「延国のダムには及ばないけれど…それでも、私はこのダムの完成を何よりも誇りに思う」
「私も心よりそう思います」

誰に当てるでもなく呟いた言葉に返答があった事にすこぶる驚いた陽子は、帯刀していた水禺刀を鞘走らせる。
『でも、この声って…』
静かに声が発せられた方向を見やると、この場にいるはずのない人物を目の当たりにして今度こそ陽子は腰を抜かしてしまった。



「な、なんでお前がここに!」



開いた口をパクパクさせつつやっとの事で呟く陽子に向かって静かに歩み寄るのは、見間違えようのない己の半身…景麒であった。



「それは私の台詞でございます、主上…」



盛大な溜息を吐きつつ、尻込む陽子に手を差し伸べた。
"またここでも延々と説教を聴く事になるのか"と言わんばかりに顰められた顔に景麒は苦笑するしかなくて。

「そのような顔をしないで頂きたい。私は別に貴女を叱りに来た訳ではないのですから」

尚も差し出され続ける腕に、陽子は恐る恐るといった風に己の手を重ねた。
掬い上げるように陽子を立たせると、景麒は立ちはだかる巨大な璧壁ををゆっくりと見上げた。

「なかなか壮観な眺めでございますね」
「ああ。延には御助力頂いたけれど、それでもこの国の民が作り上げと言って間違い無いものだ」
「はい」
「あれ程の荒廃からまだ28年だよ、景麒。実際事業としてはまだ1歩を踏み出したに過ぎないかもしれないけど…それでも私は民を誇りに思うよ」
「そうですね…そしてこの事業の成功を信じて、信念を曲げずに進めてこられた主上も私は誇りに思います」

思いがけない労いの言葉を貰って陽子は一瞬瞠目し、視線をダムから隣にいる景麒に映すと静かにその表情を見上げた。
普段の景麒では考えられないように…優しさという…表情を隠す事なく顕にしていて、眩しいものを見てしまった時のように慌てて視線を逸らすのであった。

「何だか…今日のお前は優しいぞ?」
「酷い言い様ですね。それでは私がいつも怒っているようではないですか」

返される言葉もまた照れ隠しのようで、陽子はどこか面映さを感じた。
それは景麒とて同じであったのだが。



「それよりも…お前まで何故ここにいるんだ?まだ私は答えを貰っていないぞ?」

陽子は慌てて話題を元に戻した。そうしないと照れ隠しの為とは言え、また心にもない悪態を吐いてしまいそうだった。それに実際景麒の口から理由を聞かないと納得いかないのも事実である。

「浩瀚に…」
「浩瀚に?」

しどろもどろ答える景麒の背中をトンと叩いて『男らしく言ってしまえ』とばかりに急かす陽子を前にしては、さすがの景麒も渋々ながら答えるしかなかった。理由を聞くまで己が主は梃子でもこの場から動かないような雰囲気を醸し出していたからだ。

「浩瀚に追い出されたのですよ…」
「はぁ?」
「"主上の喜びは台輔の喜びでもあるのですから、一緒に祝典に参列なさいませ。ついでにといっては語弊がありましょうが、この所休みもなく働き続けていらっしゃる事実を踏まえて、ほんの僅かばかりではございますが休日を取られてもよろしいかと"と。遠甫や祥瓊殿、鈴殿にまで追い立てられる始末で…」

いつも以上に憮然とした表情で種明かしをする景麒に向かって、陽子は盛大に笑い転げた。

「そこまで御笑いにならずともよろしい!」
「いやっ、クッ、ごめ…いかにも浩瀚らしいなってね…ククッ。成る程、景麒が来るからこその禁軍随伴だったのだな。漸く納得がいったよ。ッ」

景麒の照れが怒りに変わる前に何とか陽子は笑いを収めた。

「確かに浩瀚の言う事にも一理あるな。お前なくしてこの事業の成功は在り得なかったのだし。お前が州侯と官吏からの突き上げで怯みそうになる私を支えてくれたからこそ、目の前のこれがあるんだからね」

もう一度クスッっと笑うと、陽子は景麒にまっすぐ向き合って言った。

「ありがとう、景麒」

喜色を一杯に浮かべた翡翠の瞳を殊更細めた主を見て、景麒はこの上ない幸せを噛締めた。

こうして密やかな興奮と喜色に満ちた夜は更けていった。










□■□










普段着慣れていない女物の豪奢な装束を早朝から身に纏わされ身動きが殆ど取れない状況は恐ろしくストレスが溜まる。高く結い上げられた真紅の髪に差し込まれた簪釵の重さに何度も愚痴が零れそうになったが…無理矢理飲み込んで美しい空を眺めていた。
快晴。祝祭に相応しい澄み切った青空を見遣り、陽子は目を細めた。



若く美しく、威厳に満ちた女王とその隣に侍る慈悲の神獣。
州侯を筆頭に自然垂れられる頭は誰に強要された物でもない。己が心に素直に従ったこそ行われた伏礼。
騎獣と共に整然と並ぶ禁軍空挺師達は、言葉なくとも絶対の忠誠を誓っている…まるで絵画の一部を切り取ったような紛れもなく美しい光景。
それを臨んだ人々にとっては、『これが永遠に続くのではないか』と思われたに違いない。





…しかしながらそれは、あっけなく覆された。





式典は粛々と行われていた。
この事業に携わった人々から祝いの言葉の数々が述べられ、瑛州侯・和州候から王へ対する感謝の言葉、王から民に対する言葉と…何一つ滞る事なく進んでいく。

「…この事業は第一期としてある意味ここで幕を閉じるかもしれない。しかしこれは始まりでしかないのである。

私の愛しい子である民に、更なる繁栄を約束する為の第一歩。
今後もこの事業は継続される。それに伴い愛し子にも役という苦痛を伴ってもらうであろう事も承知している。

それでも、私は止まる事を是としない。たった28年の間にここまでの成長を遂げる事が出来た民達だ。何も恐れる事なく、愛し子の子、孫、その子々孫々までに連なる栄華を築く為に、貴方達も今ここで止まる事を是としないであろうから。

約束しよう。私は貴方達の幸せを願い、それを現実にする為にだけ存在すると。それは私の幸せでもあるのだから…」

ダムを臨む丘の上は静まり返り、陽子の声だけが朗々と響いていた。
しばしの沈黙の後、耳を割らんばかりの歓声が宮城まで届くと思われる程の勢いで増幅したのだった。
胸を張って己の思うところを余すことなく言葉に乗せた主を見つめ、「この方が王であらせられて本当によかった」と景麒は何度も心の中で呟いていた。
それこそ、永遠に続くかのような美しい光景に一番酔っていたのは…景麒だったのかもしれない。





形式上ではあるが、「初の出水を王の手で行う」と決めたのはいつの事であっただろうか?
吉量に跨った王がダムの遥か上空へと舞い上がり、祝詞を唱え終えたと同時に出水門が開くという予定ではなかったか…今となってはそんな予定など意味をなさない。

打ち合わせ通りに陽子は己が騎乗してきた吉量に跨り、音も無く上空へと舞い上がった。
ゆっくりと上昇していく姿は、天に帰ろうとする女仙のようで…うっとりと溜息を零す音があちらこちらから響いていた。

それは突然やってきた。

事前の取り決めと違う事なく、王の威厳をまざまざと映し出すようにゆっくりと上昇を続ける陽子。
丁度璧壁の半分辺りに差し掛かった時であった。
轟音が木霊する溜息を一気に打ち消した。



璧壁のなだらかな稜線に沿って上昇を続けていた陽子を襲ったもの…それは大量の璧と水…



巨大な石壁を固定する為の要璧…キーストーン…が陽子の上昇を待ち受けていたかのように落ちて行く。
音もなく、"そこにしか収まる事ができない形"のまま崩れる事なく、遥か下方に流れる合水へと。

何が起きているのか理解したものは、多分景麒しかいなかったであろう。
要璧が落ち抜けた璧壁は…悲鳴を上げるような轟音と共に、目一杯溜め込まれた水を携えて陽子へと襲い掛かっていった。



何が…

何が、起きた…?

思考が止まる。

それでも、身体は無意識の内に火急の現状に対応し、一瞬のうちに転変する。

常世一の俊足を誇る麒麟。

それでも…届かない、届かないのだ…

目の前で巨石と水流に飲み込まれようとしている己が主へと差し伸べられる手は、届かなかったのである。





声にならない声、悲鳴とも叫びとも泣き声とも…そのどれでもあってどれでもない雄叫びが常世全体に、絶命のように響き渡った…





鳴蝕。





そうして…永遠に続くかと思われた一瞬は永遠の常闇に閉ざされ、王気と共に陽子の姿もまた…消えた。










chapunの言い訳

やっと事件発生。(苦笑
私の脳味噌は『まだしばらく続けたいYO!』と喚いております。
もう少々お付き合い下さいませ。m(._.*)m

ちなみに『合水〜』の下りはchapunの妄想です。
原作とは全く関係しないフィクションでございます。大目に見てください…;


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