廃墟と楽園 1 - 赤楽 28年 - |
『大丈夫、私の戻る場所はここにしかないのだから。な?』 鮮やかな笑みを浮かべた主を、飛び立つ騎獣を見送ったあの日。 穏やかに吹く雲海の風に揺れる、見間違えようの無い緋色が視界から確認できなくなるまで見つめ続けたあの日。 何とも言い様の無い不安に押しつぶされそうだったあの日。 たった一言が言えなかったあの日…。 私が…私の 『楽園』 を壊してしまったあの日。 「主上…」 私は流浪の旅人となった。 『 廃墟 と 楽園 』 暑い…夏だった。 慶東国に赤楽朝が宣下されてから既に20年以上が経とうとしていた。 順調とまでは言えずとも、確実に復興の兆しを内包した王都の活気を雲海の下から感じる事は、堯天山に住まう誰しも(国府に身を置く物の誰しも)が密やかな喜びとして心の内に抱えていた。 「民が…戻ってきているな」 一際表情に乏しい事で知れ渡っているかの国の宰輔も例外ではなかった。 一目ではそれが微笑であるとは気がつかない程の些細な変化……非の打ち所の無い整った顔立ち、薄紫の下に絶えず哀れみのような感情を纏った瞳がその時ばかりは柔らかに、ゆっくりと細められていく……しかし見る者によってはそれが確実に『微笑み』である事はまぎれもない事実でもあった。 見る者… 「いつもそのような表情をなさってくだされば、主上も台輔の姿をお見かけしては逃げ回るような真似をされないでしょうに…」 「…浩瀚か…」 含み笑いをしつつ背後から現れたのは、慶東国の冢宰、浩瀚であった。 「何か火急の懸案でもあったか?」 振り返りもせず、さも感情を押し殺したような声音が、少し青臭い夏の生温い風に乗るように前方から小さく響く。 "途端にいつものそれと変わらない表情を纏ってしまうのが、可愛いといいますか何といいますか…" 思わずクツクツと口元を押さえて笑ってしまったのが仇となったのか、振り返ったその視線はいつもより多少強いものとなっていた。 「お主の戯れに付き合っているほど、この体も暇を持て余している訳にはいかないのだがな」 「…それは失礼つかまつりました、台輔」 尚も笑いを噛殺し続ける浩瀚を見てとうとう我慢ならなくなったのか、盛夏に燃える日差しをまともに受け白金に輝く鬣を靡かせる勢いで仁重殿への道を戻ろうとし始めた景麒に浩瀚はいつもの声音に戻して言った。 「…主上が近々出奔なさる御様子です」 歩みは一瞬にして止まる。 ビクッと、傍目に見ても驚く様子が浩瀚の目にも見て取れた。 "些か選んだ言葉が強すぎたか…"内心ではそうも思いつつ、浩瀚は景麒の様子を伺う。 やや俯き加減の表情は白金の鬣に遮られて臨む事はこの立ち位置からでは不可能であったが、纏った雰囲気が一瞬にして氷点下まで下がった事は即座にわかる。 そんな事は百も承知で浩瀚は辛抱強く景麒の反応を待ち続けた。 「…出奔とは…冢宰が易々と口にする言葉ではない。控えよっっ」 微かな震えを伴った声。必死に搾り出しているかのようだ。 血色が抜ける程強く握り締めた拳が、声音が、己が主の不在を頑なに拒否しようとしている。 それほどまでにこの麒麟は、主の不在(色々な意味で)を未だ快く思ってはいないのだと浩瀚は心底思う……主の不在を喜ぶ麒麟が存在する訳がない事を重々承知した上で。 その事実を確認できて、逆に浩瀚は安堵を覚えた。 「主上におきましては"出奔"と銘打つほうが適切かと思いましてね。"家出"では余りにもいたずらが過ぎますように思えますので」 「浩瀚っ!」 目元を朱色に染めて大声を上げた景麒に、今度こそ盛大に浩瀚は笑い声を上げた。 今度こそ怒らせてしまいましたかな…珍しく気色ばんだ景麒を視界に捕らえつつ、浩瀚は続けた。 「先日完成しました和州の治水工事の式典に、主上自らお出ましになられたいとの事です。まだ主上から台輔にお伺いを立てられていないのは主上の昨今の御様子を伺えば私にもわかりますので、事前に台輔のお耳に入れておいたほうが良いかと思いましてね。この調子では前日まで台輔には何もお告げにならず強行なされそうですから」 浩瀚の言を聞き終えると、景麒は盛大な溜息を零した。 余りにも想像通りの行動に笑みが浮かんでしまいそうだった浩瀚だが、ここでそれをやってしまっては今度こそ景麒を本当に怒らせてしまいそうで無理やり腹の中に収めた。 「…主上は…何故に私を遠ざけるような事ばかりなされるのか…」 悔しそうに、淋しそうに呟かれた声が、微かに歪められた眉が、景麒の心内を顕著に表していた。 このような事を人目を憚らずに言う景麒の姿を目にする事等滅多にない。それほど己の半身に執着せずにはいられない"麒麟"という存在を、浩瀚は憐れに、しかし半ば羨ましくも思った。 「詮無い事を申す台輔は事の他珍しく興味をそそられます。が、本心からそのような事を思っておられる訳ではない事も私は分かっているつもりで申し上げています」 「浩瀚、私は…」 そこで景麒の言葉は止まってしまった。 浩瀚は構う事なく続く言葉を吐き出した。 「今回の治水工事完了は、主上が抱いていらっしゃる今後の灌漑・治水設備敷設事業への第一歩である事は台輔も十分御存知かと。今更私が申し上げるのもなんではございますが、治水は民が・国が潤う為には欠かせない最重要事項の1つでありますから。 1年2年でどうにかなるような事柄ではないものの、その一番最初である今回の事業を主上はとても重く受け止めておられる事でしょう。今後の事業方針を導き出す為にも、御自ら視察に伺いたいと思われるのも一概に否定できる事ではないとも」 生温い、湿度を伴った風が吹きぬけた。 繁茂する下草の、命の息吹を感じさせる青い草息れは、香で燻してあるはずの衣服の隅々にまで染込んでいきそうな程 充満していた。 「理解ってはいるのだが…私の本能はそれを拒む…」 諦めにも似た表情で顔を上げた景麒の姿を、浩瀚は多分一生忘れないだろう。 表情の持ち主はそれを『本能』という。本能、即ち『麒麟としての本質』であると。 しかしながら浩瀚は疑問を持たない訳にはいかない。 『麒麟とは、天意・民意を与えられる儘に受ける器でしかない。そこには己の意思など存在しない。半身である王の為、ただその為だけにあるのだ』 目の前に立つ人外の生き物は、そう遠くない過去に思わず自分に向かって零した事があるから。 ならば何故、このような顔をするのであろうか。 何を以って"人外"であるのか…それはただ"転変"以外の何物でもないのではないか? 麒麟という姿、人としての姿、その2つを持つからこその"人外"という言葉であると浩瀚は思う。 ならば…『人としての姿』を持っているのであるなら、"己の意思など存在しない"という言葉は詭弁になる。 『人(ヒト)という生き物には、必ず "心" という、己でも扱いきれない部分があるのですがね…』 言葉にならない声は、吹き抜ける初夏の風に吸い上げられて流れていく。 「畏れ多い事を申し上げる事をお許しいただけますでしょうか?」 「…構わん」 一つ小さな息を吐くと、浩瀚は言葉を丁寧に選びながら続けた。 「私は"麒麟"にはなれませんので、台輔の仰られる"本能"を理解しきる事は不可能でございましょう。ただ…麒麟とは人と麒麟の二形を持つ者であると理解した上で、台輔にこう申し上げたいのです」 「何を…」 「台輔の半身は主上であらせられる…その事実はいかようにも曲げる事はできません。主上の半身は台輔、貴方以外にはあらせられない事も事実でございましょう」 「…」 「そして…麒麟としての本性を持つのであれば、人としての本性も…貴方の内には間違いなく存在する、すると思いたい私がおります。そう思いたいのは、はたして私だけでありましょうか?」 「浩瀚…」 「どのような理由があるにせよ、、、貴方にそのような顔をさせてしまう自分をいっそ呪ってしまいたくなる程厭わしく思っておられる方がいらっしゃる、、、しかしながら、それは己の半身、己を映す鏡であるのです。半身の憂いは己の憂い、迷いは己の…そう単純な物でもございませんでしょうに、それでもそう思ってしまう程真っ直ぐな心根をお持ちの方がいらしゃる事を、私は知っておりますから…」 それ以上言葉を紡ぐ必要を浩瀚は感じなかった。 真っ直ぐに自分へと注がれる視線の持ち主は、今浩瀚が放った言葉を己の内の葛藤の中で理解しようと、理解したいと勤めていると思えたから。 『私も…主上とその半身の事になると随分と甘くなってしまうものだな』 もう一度クツクツと喉を鳴らすと、浩瀚は丁寧に頭を垂れてからその場を後にした。 □■□
浩瀚が立ち去ったあともしばらくの間、景麒はその場で立ち尽くす事しかできなかった。 浩瀚が残していった言葉の意味を、ただそれだけを考えていたから。 浩瀚は… "麒麟" というもの、人外の生き物である私を、ただ"麒麟"と"人"としての二形を持つ者であるだけだと言い切った。麒麟である己自身でも答えの出せない事実を。 その根拠は一体何であるのだろう。 麒麟としての本性、それは天意・民意を汲み取る器。しかし"人"としての形を持つのであれば"心"もあるのではないかと… 「心…か…」 己の意思など存在しないと自分で言い放った癖に、その言葉自体に裏切られているような…己に苛苛とする日々がなかったとは言えない。いや、苛苛としっ放しなのである。 そんな己の姿を見ては、主上は"己を映す鏡"だと思われている事も、浩瀚にわざわざ言われずとも重々理解っているのにもかかわらず…だ。 己の中に"人"という部分が、"心という無形の存在がある"と素直に認めてしまうには…些か己は臆病にすぎる。 臆病にならざるをえない原因は、未だ己の中では『過去』になっていないのだ。 そんな己を辛抱強く、時には激しく待とうとしている主を、己はどのように受け止めているのであろうか? 「そろそろ…逃げてばかりいる訳にもいかなそうだ」 何かに踏ん切りをつけるように今度こそ仁重殿へと向かう景麒の後姿は、まだ晴れやかとは言い難かった。 "己はどのように受け止めているのであろうか?"……そんな風に物事を捉える事ができるという事実そのものが、『心がある』という事にまだ気がつこうとしない景麒であった。 □■□
その晩遅く、仁重殿に訪れる者があった。 『こんな時間にお一人でうろうろと出歩くとは…』 どこにいようとも王気は感じられる。 それは柔らかい新緑の色であったり、灼熱の盛夏の日差しであったり…時に色を変え雰囲気を変えて麒麟にだけわかる光。何よりも求めて止まないもの。 微かに硬い雰囲気を伴ったそれは、仁重殿の扉の前でしばらくの間動かなかった。 何かを逡巡するように揺らめいてはなかなか動こうとしない。半時もの間、その光はそこで留まったままであった。 先に根負けしたのは景麒であった。 元来の重さを感じさせないような静かな歩みで、扉の前に立ちつくしているであろう主の隙を付くような形で勢いよく扉を開け放った。 「あ…」 とびきりばつの悪そうな顔をした主の姿を見て、景麒は苦笑せざるを得なかった。 「いつまでそのような場所におられる。共もつけずにこのような時間にお一人でうろうろするとは…常日頃私は口を酸っぱくして申し上げているはずですが?」 「どうせ班渠が控えているんだろ?全く。お小言を聞くために来たんじゃないよ景麒。お小言なら昼間だけで十分」 うんざりしたように両手の掌を顔の横で左右に振ると、陽子も覚悟したのか堂室へと歩を進めた。 備え付けられた茶器で手ずから茶を淹れる景麒を陽子はぼんやりと見つめていた。 書卓の横に設えられた榻にちょこんと腰掛けると、この堂室の主の香りで満たされた空間という物を久々に感じ入った。 「久しぶりだな、この堂室にくるのって」 「普段は私から主上の元へと赴きますので」 久しぶりとは言っても1年・2年もの間があった訳ではないのだ、そこそこ経っても2週間程度。それでも陽子はそんな風に感じていた。 『自分からそう仕向けたのに、なんだかな…』 心の中で苦笑する自分。 そう、時間が必要なのだ…わかってはいる、わかってはいるけれど… ただ無我夢中で走っていた。 自分が慶東国の『王』となって以来、足を留めて余裕を見せる暇などこの国にはなかった。たった6年で滅びてしまった前王の時代、その6年の間に失われてしまった物は余りにも多過ぎた。 一度に取り戻せるような物など何も無い。けれど民は一国の猶予も与えてはくれず、また己も与えようとはしなかった。 今出来る事、出来ない事の吟味をし、出来る事は1つずつ前進させていく事の繰り返し。 遅々として進まない行動に己自身が苛立ちを覚えつつ、それでも進むしかなかった。 そうして過ぎ去っていった日々の積み重ねに気が付くと、赤楽朝は28年の年月が経っていたのだ。 それは、ほんの少しの余裕が出来た証。28年の間に己が行ってきた施政を振り返る余裕が出来たという事だった。 施政を振り返る事は即ち、それに携わってきた人々と己との繋がりを改めて確認する作業であると陽子は思った。 日々の公務の中で陽子はその作業をゆっくりと、公務に支障を来さない形で進めていったが、それはある時ふと疑問として陽子の心の中にゆっくりと染みを作るように影を落としていった。 無我夢中で走り抜けてきた日々の中、感じた変化というのであろうか? 時が過ぎれば必然として変わっていくものがあるという事に今更ながら気が付いたのだ。 成長という名で変わっていく自分がその最たる物の1つであった。 己の中で全くの白紙であったこの世界の知識が、沢山の人々の腕に支えられ蓄えられていった事実。 国府に身を置く官吏の腕であったり、身近に居てくれる温かな人々の眼差しであったり、愛嬌という言葉を知らないかのようにいつも傍に控えている己の半身の存在であったり… そう、その半身である景麒の変化にも今更ながら気が付いたのだ。 『己は天意の、民意の受け皿でしかないのです』 そう言ったのはいつの事だっただろうか。 感情を全く感じられないような冷たい眼差しで、景麒は間違いなく言ったのだ。 己には意思など存在しないと、言外に含まれた言葉が思いがけず陽子を傷つけたのは確かだった。 そう、言わせてしまったのは自分。 麒麟は王である己の半身である。半身とは己を映す鏡でもある。 己には見えない物、無い物を麒麟は目の前で具現化していくはずなのだ。 大切な、大切な友人は陽子にこんな事を言った事がある。 『陽子に足りないものを台輔は持っているんだと、おいらは思うよ。それは陽子にとって必要不可欠であるものじゃないのか?それを含めたすべてが台輔であって、陽子でもあるんじゃないかってな』 照れくさそうに言った友人のはにかんだ笑顔が脳裏に浮かんだが、一瞬にして靄のように消え去る。 足りないものを補い合う為に存在する半身。その半身は"己には意思などない、心などない"と疑いも無く言い捨てる。 それは…陽子自身がそう思っていると言っても過言ではないのであろうか? そう言わせてしまうのは、己が原因ではないのだろうか? 天帝がいて、麒麟がいて、民がいて、己(王)がいる…卵が先か鶏が先か、そんな事はどうでもいい。 そんな哀しい事を言わせてしまうのが自分であるという事に、己の不甲斐なさに陽子は傷ついたのだ。 己が変わらなければ、半身である景麒も変わる事ができない…驕った考えであると今では思えるが、その時はその一点でしか捉えられなかった事実から、陽子は視線を背けた。 何故なら、己を変える方法を陽子は思いつかなかったからだ…。 ただ1つ『優しくありたい』と、それだけは心に誓ったのであった。 己を呪えば景麒をも呪う。景麒を疑えば己をも疑う…そんな不毛な妄想、いや、現実を歩む為に自分は玉座についた訳ではないのだから。 小さな子供でもわかること。 自分の事を自分自身が嫌っているのに、相手に好意を持ってもらおうなどという思い違いはしてはいけないのだから。 そんな陽子自身の葛藤と覚悟を景麒は理解っていたのだろうか… 自分が変わろうとする、変わっていくのと同じく景麒自身にも何かしらの変化を感じられたから。 過去を振り返る作業の中でひしひしと感じるそれは、明らかに喜ばしい事実として陽子の心に溶けていった。 ただし、当の本人はそれに気が付いていないのだ。 麒麟としての本性は認めても、"人"としての本性に気が付こうとしない。 未だ景麒の中に燻る様に存在する何かが、景麒を押し留めているように陽子は感じた。 景麒がそれを認めるにはそれ相応の時間が必要であると、やっと陽子なりに結論を出したのが2週間程前の事であったのだった。 「じょう…主上?」 はっと我に返ると、景麒の心配そうな顔が陽子を覗き込んでいた。 「お加減でも宜しくないのですか?」 「すまない、少し考え事をしていた」 差し出された茶器を慌てて受け取ると、陽子は一息で飲み干そうとした。 案の定…茶の熱さに顔を歪める陽子を見て、珍しく景麒は声を上げて笑った。 そんな景麒の姿にぶつぶつと口の中で陽子は文句をいいつつ、火傷したであろう舌先を思い浮かべて痛そうな顔をした。 「貴女はそのような事をする為にこの堂室を訪れた訳ではあるますまい?」 苦笑を抑えつつ景麒は陽子に向かって促した。"まるで昼間の浩瀚の立場になったようだな"などと腹の中で考えながら。 尚もぶつくさいいながら、それでも気を取り直したのか陽子は神妙な趣で景麒に向かって話しかけた。 「直談判をしにきたんだ。景麒」 一つ深呼吸をしてから陽子は呟いた。 いよいよ本題を切り出すらしいが、その件について景麒は既に『是』という意を持ち始めていた。 浩瀚に諭されたからだけではない。己なりに考えて結論を出した結果がそうであったのだ。 心…というものに対して、初めて真面目に向き合ってみた。 己の中にそのような物が存在するのであるのか?…もし、心というものがあったとしても、はたしてそれは己の確固とした"意思"であると言い切れるのであろうかと。 民意と天意を具現化したものが麒麟だと人は言う。 己の麒麟としての器を通り過ぎたそういうものたちが器を通した事で濾過され、透明になった上澄み、それを己の意思として捕らえているだけではないのか? しかし、いくら考えてもわからなかった。 天意とは?民意とは?それそのものが景麒の中では曖昧模糊とした物であったからである。 純粋な塊として景麒の中にそれが存在している訳ではないのである。 つまり、『天意』も『民意』も、はっきりとした形を伴っていないだけに、景麒の中には存在しないとも言い換えられるのであった。 その逆説に至った時点で景麒は初めて思い知った…それこそが"心"という存在そのものではないのかと。 形にならない思い、形にする事などできないもの、その全てを一つにして『心』というのであれば、己の中にも確かに存在するではないか。 確信を持ったあとに改めて浩瀚の言った言葉を考えてみれば、何でもない、素直に受け止める事ができたのであった… どう切り出せばいいのか悩んでいる主を横目にして、景麒は自ら沈黙を破った。 「和州視察の件でございましょう?」 驚きに目を見開く主の姿を見て、思いがけず心が穏やかになる己に、景麒はそこはかとない心地よさを感じた。 「わかっていたのか…一人でビクビクして損した気分だ…」 顔を顰めつつ呟く陽子の声は、それでもとても穏やかなものだった。 クスリと、音がするのならそのような雰囲気でいたずらそうな笑みが陽子から零れた。 それを見届けると、景麒の口唇から素直な言葉がついて出た。 「大手を振って"心ゆくまで行ってらっしゃいませ"とは、さすがに申し上げる事はできませんが…」 「まぁ、景麒にしてみればそんな所だろうね…」 「それでも、貴女は必要だと仰る。貴女が必要だと仰る事は、多分私にも必要な事でありましょう。それは即ち、この国の行く末に、民の安寧に直結する物である事と私は理解致しました」 「景麒…」 眩しそうに見上げる己が主の視線を受けても、景麒はその視線から己を外そうとはしなかった。 天意でも民意でもない。いやその両方を含めた物でもあるだろう。しかし己の一番深い場所で出した結論である事を、この翡翠の瞳の持ち主にわかって欲しかったから… 「ありが…とう…」 呟いた主の瞳から溢れる透明な雫が、仄かに点された灯火に反射した。 心持伏せられた頬に…気が付けば景麒は己の指を添えていた。 主と視線を同じ高さにすべく跪くと、静かな翡翠を覗き込んだ。 「一つだけ…約束をして頂けませんでしょうか?」 「ん…」 照れ臭そうに逃げ出した視線を無理に追うことはせず、景麒は言った。 「貴女が戻る場所はここであると…」 「そんな事、今更改めて言わなければならない事なのか?」 さも心外だと言わんばかりに口唇を尖らせる陽子は、口調とは裏腹に穏やかな笑みを浮かべていた。 「…安心しろ、私の戻る場所はここしかないよ…」 そう言って右の人差し指を立てると、跪いていた景麒の胸をつっと押した。 思わず尻餅をついてしまった景麒は呆気にとられていたが、陽子はそんな事はお構いなしに堂室から出て行こうとした。 「お前がそこまで驚くとは思ってもみなかったよ」 扉と堂室を仕切る衝立の前で一瞬立ち止まると、さっき泣いた烏が云々というようないたずらな視線と言葉を景麒に残して陽子は仁重殿を後にした。 □■□
あの夜から丁度一月後、緋色の髪の主は禁門から騎獣を駆って飛び立っていったのであった。 心の中で結論を出してはみたものの、やはり主と離れる事を潔く良しとしない感情は嫌でも持て余してしまう己が半身に 『大丈夫、私の戻る場所はここにしかないのだから。な?』 何事もないように、あの夜の約束を口にしながら。 しかしながら…約束は違えられたのである。 誰しもが予想できなかった形で… 続
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chapunの言い訳 『己には絶対無理!』だとは百も承知でとうとう始めてしまった十二国ネタ!! おまけにむやみやたらに長いジャマイカ!?(@Д@; もう、何も言うますまい・・・ 終わるんだか終わらないんだか自分でもようわかっておりませんが、とりあえず書ける所まで書いてみようと思ってます。 気長にお付き合いくださいますと幸いです。m(._.*)m |