響 5 ヒビキ 5
月が囁く夜だった。 風呂上りに見上げた空の美しさに心を動かされた。 「入るぞ」 珍しく声をかけてから七地の部屋に入る。返事ができないので枕元に置かれた鈴が1回鳴らされた。 障子戸を開けると静かに腰を下ろす。 ろくに乾かしもしていない前髪からは雫が零れていた。額に纏わりつく髪が鬱陶しくて、無意識に掻き揚げていた。 そんな俺を見て、七地は手招きをする。 何も言わず近寄る俺の首にかけられたタオルを取ると、ジェスチャーで"回れ右"をする。 渋々頷いて背を向けた。 タオルを頭から掛け、雫を拭ってくれる。 白く細い指が俺の髪を優しく梳く。 七地の指に弄ばれる髪がさらさらと零れる。 背中越しに感じる七地の視線に堪らなくなる…胸が締め付けられる様な切なさに襲われたのだ。 髪を乾かす手の動きを不意に止めた。 …そっと掴んでみる…眠りに落ちる前の子供のようにあたたかい。 呼吸が止まる---緊張で身体が強張った。 「今日は月が綺麗だから…ちょっと見てみないか?」 精一杯冷静に言ったつもりだったが…七地の緊張が指先から伝わる。 強張った身体から力を抜いたのが"Yes"の合図。 まだ足取りが覚束ない七地を腫れ物に触るように抱きかかえ、中庭へとつれだした。 恥ずかしくてジタバタする七地を見て 「誰に見られようが問題ないだろ?お前歩けないんだから」 いつもの調子でぶっきらぼうに答えてしまう。こんな時でさえ気の利いた言葉1つ告げないなんて。 維夫谷の本家には敵わないが、都内にあるにしては広さと静けさを持つ稚国邸の庭は、満月に照らし出されて薄藍く煙っている。 設えてある庭椅子にそっと降ろす。 七地の横に腰を落ち着けると、2人して暫くの間月を眺めていた。 時折雲に隠れながらも色温度の低い、蒼い光を落としている。 徐に口を開いてしまった。 「もう……あんな真似、しないでくれ……」 心の底から搾り出すような声。 言うつもりなどなかったのに…言葉は意思に反して紡がれた。 静かに月を見つめ続ける七地…何を思っているのか。 両膝を握り締め、目一杯顔を仰向ける…透明な雫が零れ落ちないように。 呼吸を整えて大きく1つ、頷いた。 何をそんなに堪えている? 溢れそうになった涙を、月を見続ける事で押し止めていた。 俺達のためなんかに命などなげだすなと言っているだけなのだ。 「あんた…何て顔してるんだ?」 強い非難を込めた声。 答えに窮する七地の肩を強く揺さぶる。 「"簡単に命を投げ出すな"って事位わからないのか?お前まで…俺を置いていくなっっ」 きつく胸に抱き込んだ。 「お前を手放す位なら……俺は全てを殴り捨ててでも取り戻す。お前に仇名し、苦しめるものを必ず引き裂く。例えそれが…お前を愛する者だとしても。それ程………七地を愛しているんだ……」 限界だった。これ以上溢れ出す想いを閉じ込め続ける事なんて、出来るわけがない。 今だけ…この一瞬だけ赦して欲しい…己の想いを告げる事を。 「闇…己くん…おれ…も…」 掠れた声を精一杯搾り出して七地が言った。 「君が…好き…だ…よ…」 胸から引き離して顔をまじまじと見つめる。その瞳には何の憂いも感じ取る事はできない。 確認の視線を投げかけると、"こくん"と頷いた。 「だって…お前は寧子と…本当に違うのか?」 もう1度頷く。再び胸の中に埋めた。 「寧子が言ったんだ…『ちょっと焼きもち焼いたの』って。俺と七地の中が良すぎるのが寂しかったから、七地をからかったと…本当にそうなのかもしれないけど、お前の口から確認できるまで信じられなかった」 内心は不安で一杯だった。 寧子はキッパリと否定したが、愛する者から直接答えを得るまでは…死刑台を上る囚人のようだったから。 涙が零れていた。 愛しい人を胸に抱き、愛の告白をその身に受けられるという幸福に震えた。 叫びたいほどの歓喜に酔いしれる…こんな想いを抱えるのは初めてだった。甘くて、愛しくて、なのにどこか切なさを感じている。 俺には恋愛など必要ないと思っていた。 千年の時を越え、抱えてきた一族の悲願を達成し、血塗られた宿命の呪縛から開放されるにはそんなものは邪魔にしかならないと認識していたのだ。 人一倍愛情を欲しているのにも関わらず、失ってしまった後の衝撃に耐えられる勇気を持ち合わせていなかった為…現実から逃げていた。 それ程臆病な自分を知られてはいけなかった。 一族が求めるものは常に"強くあれ"というものだったから。 一党を束ねる者の宿命は、そのような甘えを赦してはくれないのだ。 しかし、今は違う。 業を抱えよろめく俺でも必要としてくれる人がいるから… これ以上望むものなんか有りはしないんだ…そう、七地が存在するのなら。 そっと涙を拭ぬぐう。ありったけの優しさを込めて。 ほの蒼い頬に添えた指を外から包み込んでくれる七地。 「俺の手を…罪に穢れたこの手を、お前は掴んでくれるのか?」 何も言わずに七地はそっと瞳を閉じた。柔らかい口唇に自分のそれを重ねる。 始めは軽く啄ばむように、次第にそれは情熱的なものに変わっていく。 息苦しさに割った口唇の隙間から熱を帯びた舌を忍び込ませた。 美しい歯列をなぞるように、艶かしく動く舌。絡み合い、内の熱を煽る。 蕩けるような陶酔感が全身を駆け巡り、更に己の情動は勢いを増す。 危うく理性が吹き飛びそうになるのを堪えた。ゆっくりと七地の口唇が解き放たれる。 「どうして逃げるんだ?嫌…だったか?」 あわてて首を振る。 下を向いて、真っ赤に染め上げた顔を隠そうとする愛しい人。 七地も戸惑っているのだ…自分の中の情動に。 そんな可愛らしい思い人を放っておくほど俺は優しくない。 全てを見透かしたように"ニヤッ"っと笑って呟いた言葉に、七地は溜息を溢した…… 「そんなにがっついてないぞ?時間はまだ山のようにあるんだから」 これから先が思いやられると顔に書いてあるようだ。 それでも一緒に歩いていく。 お前はおれの手を取った。 俺はお前の手を取った。 今はその事実だけで充分…かな。 蒼い月光の下、神剣達が"己の半身"の幸せを願い 愛しい御子達の平安を願う 一際優しい奏でを捧げたのは言うまでも無い。 『悩み、悶え、立ち向かう者の先には…柔らかな日差しが待っている』 と。 |