廃墟と楽園 9 - 赤楽 28年 - |
ばさっと派手な音を立てて起き上がった瞬間、己が何処のいるのか一瞬理解できなかった。 けれど直後に鼻腔に感じた花の匂いに気づき、やっと景麒は思い至る…ここは蓬廬宮であったのだと。 改めて己を見遣れば酷い寝汗を掻いている事に気づいた。 呼吸も常よりは遥かに忙しなく、肩で息をするかの如く荒い。 柔らかな羽毛を纏った腕が影から伸ばされて宥める様慈しむ様に何度も景麒の鬣を撫でるが、胸に蟠る不安感まで拭い去ってくれる物ではなかった。 『台輔…何やら魘されていらっしゃったご様子ですが…』 直接脳裏に響く声は酷く気遣わしげで。 けれども理由を答える事が景麒には出来なかった。 それは改めて己の罪を己自身の手で暴かねばならぬ作業にも思われたから。 「…疲労が溜まっていたのだろう。問題ない」 『しかし…』 「随分と無駄な時を過ごしてしまったようだな」 『何を仰いますか!このような時だからこそ休息が必要なのです。台輔がお休みになってから四刻程しか経っておりませんし体調も未だ優れぬ御様子。 玄君も申しておられましたでしょう?主上不在の今台輔まで倒れられては…』 逸る心を隠す事なく曝け出す景麒に向って、怯まず芥瑚は言募る。 けれど、景麒の言が翻る事はなかった。 「お前達にも無理をさせているのは熟知しておる。それでも留まっている事は出来ぬ。私は…麒麟なのだから」 『台輔…』 「先程より大分躯も軽くなった。女仙に玄君への目通りを言付けてくれぬか?」 「その必要はない。確かに先程までに比べれば大分顔色も戻ったようじゃな、景台輔」 声の主は紛れも無く玉葉であり、景麒のいる臥室の堂扉前に設えてある衝立の向こう側から聞こえてくる。 「急ぎ身支度を整えます故、暫しお待ち下さい」 「良い良い、礼儀としてこちらから声をかけたまでじゃ。いらぬ気遣いは無用」 そう言うと、玉葉は室内に立ち入り景麒の横たわる臥牀の横に置かれた床几に腰掛けた。 芥瑚によって着替えさせられたであろう被衫姿だった景麒は、肩から簡単に襦裙を羽織ると玄君に向って深々と頭を垂れた。 「既に御承知頂いておられるでしょうが、慶東国は今現在王が不在でございます。 そしてこのような状況に陥りました原因の一端は私に在る事も理解しております。 しかしながら…このまま主上を放っておくなど私には、我ら慶東国の民には出来ませんっ!」 悲痛な叫びは静まり返った室内に木霊する。 尚も景麒は悲哀を隠せない言葉を紡ぎ続けた。 「あの方を無くしては…今度こそ慶は消え去るでしょう。 麒麟が何の戯言をと思われるかもしれませんが、それ程主上は慶にとってかけがえの無い存在なのです」 慶にとって…それは紛れも無い真実。 けれどそれだけではない。それだけが真実ではないのだ。 己の胸の内、一番深い場所にある"心"というものが…心底あの方を求めている。 麒麟の本性として王を求める力を凌ぐ、強力な想い。 一人の"人"として…あの方を慕い、求めているのだから。 声に乗せる事の出来ない想いは、隠そうとしても景麒の発する言葉の行間から滲み出てしまうようで。 そんな己を戒めるよう、景麒は胸の辺りで拳を硬く握り締めた。 「主上は不貞な輩によって敷かれた呪により"狭間"に捕われております。 一刻も早くお助けする為に我等は全力を持ってその輩と戦っております。 故に…方法を選んでいる余裕はございません。 大綱に反する行いは即主上の御身に障りがありましょう。それだけを念頭に置き、大綱に抵触せぬぎりぎりの綱渡りを言葉通りに実行する所存です」 搾り出すかのような声音で景麒は言い切る。 "慈悲の霊獣"とは名ばかりと思える程景麒の発した言葉は熾烈な物で…己の本性を片隅に追いやってまでも、断固として敵に打ち勝つと明言したのだから。 玉葉はそんな景麒の様子を眉を顰めて見遣りつつ、溜息を交えた言葉を発した。 「…此度の一件、泰麒探索時よりも少々荷が重い…。 前例が無い事ずくめなのは勿論じゃが、何よりそなたの起こした鳴蝕。 あれは本来麒麟が持ち得る業ではないのじゃ。 わらわが知る限り、過去に似たような事例は一切ない」 玉葉の言葉に景麒は息を飲む。 本来麒麟が持ち得る業ではない…それ即ち"天意"として突然付与された業であるかもしれないと言うのか? 続くであろう玉葉の言葉を景麒は待った。 今の言葉だけでは判断するに心もとない。それが天帝の"意思"であるのなら、目の前に居る己以上に"神に等しい者"は明らかにする筈。 どのような方法を以ってして確信するのかは定かでないが、玉葉だけが唯一この世で天の意向を問う事が出来る人物なのであるから。 暫し逡巡しつつ、玉葉は言葉を選びながら続けた。 「この世に存在する麒麟、その全てがそなたの鳴蝕を聞き及んだであろう事は各国からこちらに寄せられた青鳥により明白。 しかしながら、それがそなただけに備わった業なのか全ての麒麟に措いてなのかは判別つかぬ。 今回のみの特例であるのか、それとも今後も継続し得る物なのか。 直裁に申せば…天帝はこの件に関しては何も仰る事はない。 受け取る側、当事者の心持次第であると心得よ」 …おかしな話ではないか?それでは明らかにこの世界の条理に矛盾する。 景麒は抑える事なく、玉葉に向ってその意をぶつけた。 「それは…私が、いや我々麒麟とこの件に携わる者達による認識次第という事でしょうか。 これを"天意である"と見做せばそうなるものであると…それは余りにも端的に過ぎませぬか? 泰麒探索の折には、過去の例に則った条理の解釈を玄君はなされたと聞き知っております。 なのに今回ばかりはそれすらしないと言う事ですか? 天に神がおられるというのは違うことなき事実なのでしょう。それは天綱の存在と蓬山、麒麟という存在が在る事からも明白。 神が…天帝が理を説き天綱が作られたのであるならば、この件に関しても天意が下ったとしか認識出来ない事柄ではございませんか? 我々の意思次第等と…それこそ過去の例から見てもありえない。 麒麟は天帝により作られた"天意・天命を汲み取る器"だと仰る。しかしながら天意・天命という物がはっきりとした形を持つ物でない事は麒麟である私が一番熟知しています。 ある事柄を"天意"と受け止めた所で、あくまでも"それは天意である"として決定を下したのは天帝でしょう。 麒麟は…受け皿でしかないのですから。 天綱が存在し、条理が何よりも優先される世界なのですよ?常世とは。 なのに天帝は何も仰らないと玄君は答えた。"元来麒麟が持ち合わせている業ではない"と認めておられるのにです。 何故でしょう。この世の仕組み・天意は天帝がお決めになられたのではないのですか?ならば答える事がお出来になる筈でありましょう」 そう…これが最大の矛盾であり、不条理であるのだ。 景麒はまざまざと見せ付けるよう語り続ける。 「条理のみが世界を形取り、網の目のように蔽い尽くしている。それが現実です。 人はその網の目を掻い潜る事で、やっと人としての営みを行っているに過ぎないと…私には思えて仕方が無い。 それは王も然り、麒麟も然り。 条理に触れぬ様、徹底された摂理の隙間を縫うように治世を敷く。 条理が存在する…即ち天意が存在するのは紛れも無い事実だとこの時点で証明されている。 けれどそれを決めるのは我々ではない。あくまでも"天帝"がお決めになる事。今まではそのようであった。 ならば何故今になって、この世の条理を覆すような事を天帝はお認めになるのですか? 天帝は、常世に根付く摂理を今更壊したいとでも仰るのですか? 神の創り給う箱庭…常世はそのような物なのでしょうか?玉京に居わす神々にとっては。 常世とは天帝の統べる国土であり、玉京の神々は天帝によって任ぜられ各国の諸官吏と同様己の任を全うする。 それは人が国を治めるのと同義でありつつ破格な違いがありましょう。神が治めるのですから。 匙加減一つでそこは楽園にもなり、廃墟にも成り得る」 朽ちた箱庭の夢が一瞬景麒の脳裏を過ぎった。 それは…罪の象徴。 「神が存在するのなら、必ず過ちを犯す…嘗て主上が仰った言葉です。 犯した過ちを償う為に、なかった事にする為に箱庭を壊すのでしょうか? 王と麒麟が罪を犯す事と訳が違いますから。神が死ぬ事はありえませんし。 罪の象徴を破壊する事、それ即ち…」 「それ以上申すな。言ってはならぬ」 厳しい口調で玉葉は景麒を嗜めた。 「玉京に天帝が居わし、天帝は天綱を、常世の条理を定めた。それは違う事なき事実。 台輔、そなたは麒麟じゃ。天意を汲み取る器じゃ。 それが常世にとってどのような存在であるのか、どのような意味があるのか…今一度良く考えてみるがよろしかろうぞ。 疲労は躯だけでなく思考までも蝕む。 充分な休息を取り、今一度天帝が"何も仰らない"意味について吟味せよ。 これより一晩、蓬山より出立する事まかりならん。 …景王の御身の為でもある。それにそろそろ金波宮よりそなたに経過の青鳥が届くであろう。 すれ違い手落ちにでもなれば、取り返しもつかなくなる。よいな?」 玉葉はこれで話は打ち切りとばかりに宮を後にする。 景麒は尚も釈然としない思いを抱えつつも、玉葉の残した言葉を改めて反芻した。 麒麟は天意・天命を汲み取る器。あくまでも天帝によって定められた意思を受容する者でしかないのは事実であろう。 これは景麒の意思でそのように捉える物ではない。与えられた物を受け取り、外(それは王であったり官吏であったり民であったり)へと発する。 天意を己の中に取り込んだ時点で、己個人の思想や経験から来る発想が加味されていないとは言い切れないであろうが、それでも大本は景麒自身の意思であるとは言い難い。 人と交わる事のない玉京の神々。唯一、人と神との接点を齎す蓬山と碧霞玄君。 玄君を通さねば天の意向を問う事は出来ない。けれど、麒麟を通して天意は計れるという。 「何故…今までこのような矛盾に気づかなかったのか…」 景麒は酷く嘆息した。 己という存在、麒麟という存在そのものがこの世の矛盾に直結しているのではないかと今更ながらにして思い至ったのだ。 景麒自身、延麒や宗麟、氾麟に比べ遥かに常世に存在している時は短い。 過去の事例は書物や伝聞により凡そ探る事は出来ても、実際経験してみなければ分からない事など腐る程ある。 泰麒探索の折、その辺について己と延麒らとの差というものを激しく感じたのではなかったか。 当たり前だと感じていた事が、実はそうではなかったと…思わなかったか。 あの時は陽子・延王・延麒・李斎が直接玉葉と会い見(まみ)え、天の意向を問うた。 延麒と延王は過去の事例・実体験を元に"天の意向を問う"という事を当たり前のように行った訳だが、景麒の主である陽子はそれについて酷い違和感を持ったと後に景麒は主より聞き知っていたのだ。 玉葉が陽子らに天の意向を伝えた時の違和感…それは玉葉が曖昧な条理に「天綱を解釈する事」によって明らかな線引きをするように受け取れたと。 更に前例を加味した上で、新たな解釈を答えとして与えようとしていたのではないかと。 常世の成り立ち・天の意向(神問い)と天意・天綱(条理)の存在は今回の件に関して無関係とは言い難い。 というよりも、それそのものに直結しているのではないかとさえ景麒には思えて仕方ない。 主を、陽子を救う手段を選ぶ段階で、既に天綱に触れるか触れないかという問題が持ち上がるのだから。 本来、景麒が蓬廬宮に訪れた理由はその一点を問う事なのだ。 しかしながらそれは微妙に論点を摩り替えた。玉葉によって摩り替えられた感さえある。 「結局は…それこそが今回の件に関して尤も重要だと言いたいのであろうか?」 麒麟本来が持ち得る業でない事が事実として受け止められた。それでも天帝は何も仰らない。 それは"ありのままに受け止めろ"と、そう言う事なのであろうか? 何よりも条理が、摂理だけが優先される世界。 何故?と問うても神は答えない。「そこに天綱がある」…それが現実。ありのままに受け止めなければこの世は成り立たないのだ。 ならば、「麒麟が天意を汲み取る器」だという事も、そのまま捉えればいいのであろうか? 天意を天意として受け容れた時点で、それには既に何をもが介入する手段はないと。 そこに問いを投げかけてはならないのだと。 「全てはありのままに…」 そこまで思考を深めた景麒は、この言葉が突破口になるやもしれないと思い至った。 全ては起きてしまった事。 ありえない事として受け止めるのではなく、現実として直視し直す。 それをありのままに受け止めた上で、何かが己の中に残るなら…それこそが答えになるのではないかと。 慢心は許されない。それ即ち主の、己の存在意義を根底から覆される事へと繋がるのだから。 王と麒麟…それは天帝によって存在を許される者達なのだから。 「ならば、改めて天意を計ってみましょう」 『台輔?』 「ああ、何でもない。今暫くの間躯を休める事にする。金波宮より青鳥が届いたらすぐに知らせて欲しい」 『御意』 今だ陽子は世界の狭間に捕われたままである。 救出する明らかな手段を見出せてもいない。 それでも… やっと、今になってやっと景麒は己のすべき事が見出せたような気がしていたから。 玉葉との遣り取りを簡単に認めると、文箱を使令へと託し。 景麒は幾分安らかな表情で再び臥牀へと躯を横たえたのであった。 金波宮より青鳥が届くのは、これより半日程過ぎた夜半過ぎ頃となる。 続
|
chapunの言い訳 景麒と玉葉との遣り取り、ちょいとくどかったですかね。(汗 これでも散々書き直した挙句、大部分をはしょったつもりなんですが。 何せ、この話を書きたいと思った最大の理由は「この場面を書くこと」だったんですもの! 神に等しく、神が創った存在である「麒麟」自身が、神への天への不信をぶつけるっての。(苦笑 「黄昏の岸…」で陽子が天へと向けた不信感という物は、陽子が胎果だからだけって理由じゃないのではないかとずっと思ってたんですわ、マイドリームの中では。(爆 だって李斎も言ってたし?(ぉぃ ならば麒麟が不信感持ったっておかしくないだろう!という無茶なこじつけですが。(撲殺 何はともあれ、書きたかった部分を書いちゃった事で創作意欲が撃沈しないよう気合入れて終幕まで頑張ります。(鬱 |