匂 い 立 つ モ ノ







サラサラサラ ト 降リシキル


真ッ白白 ノ 花弁 ガ


恥ラウ事モ 忘レ去リ


"今ハ盛リ" ト 匂イ立ツ


"今ガ盛リ" ト 匂イ立ツ









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何時からだろう…あの人の指から目が離せなくなったのは。

少しだけ節くれだった、細くて、長い指。

その指から生み出されるのは、見た事の無い不思議なモノばかりで…。

役に立つモノばかりじゃないけれど、そのどれもが皆愛しくて仕方なかった。

器用に動くその指が羨ましくて、眩しくて、

とても、とても欲しくなって…


…気が付いたら

あの人まで欲しがっていた。
























何時ものように、何時もの山道を登っていく。
途中、出没するモンスターに梃子摺る事もない。
つちのこ3匹・さい2匹をいとも簡単に片付けながら、俺は目的の場所に急いでいた。
切り立った山の頂…目指す『先生』の家はある。



「先生!せんせ〜い!!」



居場所は多分判っている。
それでも敢えて…彼の存在を確認する為に声を掛けずにはいられない。



「フェイ、私はここですよ」



目的の人物の声が聴こえた。案の定裏の物置で何かいじっているらしい。
普段母屋にいる彼の家族…ユイとミドリ…は隣り村まで買出しに出て不在だと聞いている。
いつもなら母屋に顔を出してから向かうのだが、今日は素通り。
声の主を探して、裏庭へと回り込んだ。

「どうしたんです?そんなに息を切らせてしまって」

物置を覗き込む姿を安易に想像できたのか、タイミングを合わせるかの様に振り向き様言ったのは『シタン先生』。
右手にはドライバー、左手には何だか判らない鉄の塊。
何時もと変わらぬ、全てを包み込むかの様な笑顔を纏って。


呼吸が止まる。
余りにも鮮やかすぎる笑顔を前にしてしまうと…息が出来ない。
"幸せな気持ち"と"切ない気持ち"がない混ぜになって、俺は何故だか泣きたくなった。

こんな風になってしまうと…何も言えなくなる。
曖昧な表情を口元に浮かべて立ち尽すしかない。

自分が"フェイ"という存在だと理解してからまだ1年。
心身ともに酷く傷付き、記憶すら持ち合わせていなかった俺にとって感情を現すという事は、無意識に行われるものではなかった。
1つ1つの"感情"を意図的に意識して初めて、「笑顔」だの「泣き顔」だのを表に出す事ができるようになったばかりなのだった。

自分自身ですら捕らえ所のないような感情は、すぐに持余してしまうのは当前で。
…この時点で俺はまだその"感情"の意味を知ってはいないのだから。
それでも、『先生の前でだけはこんな情けない姿を見せたくない』と思う気持ちは溢れて…。

得体の知れない俺を手厚く看病し、旧態依然とした村の体質に溶け込めるよう尽力してくれたから。
いや、それ以上に俺の精神的な支えとなってくれた事が1番の理由かもしれない。
世話になっているリー爺さんはもちろん、俺を友として受け入れてくれたティモシー・アルル・ダン、ユイさんやミドリだってそうだけど…先生は俺の中では"特別"だから。



どこかで確信してる………『この人は受け入れてくれる』と。



理由なんてない。無理矢理こじつけるとしたら……勘としか言い様が無い。
自分の存在自体未だに怪しんでいる俺にとって、唯一縋れる確固としたもの。
俺が存在する証し。


「黙っていてはいくら私でも判りませんよ?ふむ…そろそろ休憩しようと思っていたところなんです。フェイも一緒にお茶を飲みませんか?ユイが用意しておいてくれた焼き菓子があるんです」


思考に飲み込まれ佇む俺にむかって先生は優しく切り出す。
素直に1つ頷くとふわっとした笑みで包みながら、握っていたものをその辺に片付けた先生は俺の肩をそっと掴んだ。


「ほらほら、そんな風に泣きそうな顔をしないで」
「泣きそうだなんて…」
「すいません。私にはそう見えてしまいました。私はどこにも行きませんから」


苦笑しつつ最後にはいつも"私はどこにも行きませんから"という言葉で収められてしまう。
俺が一番安心する言葉を惜しげもなく与えるのだ。





促されるまま母屋のダイニングに腰を落ち着けた。
料理はからっきしな先生。でも、お茶だけはとても上手に入れる。


「今日は少し珍しいお茶にしましょうか。花の入った薫り高いお茶なんですよ」


キッチンから甘い香りが漂ってくる。身体の芯から蕩けさせるような匂い……この匂いって……。


「先生、この花ってさ、白くて甘い匂いのするやつでしょ?」
「おや?貴方はこの花を知っているのですか?それもまた珍しい事ですね」


面白そうに呟くと、俺の目の前にあるカップにゆっくりと注いでくれた。やっぱり、あの花の匂いだ。


「…俺、名前はわからないんだけどこの花知ってるよ。今日はその為に来たんだからさ」


カップを鼻の前まで持ち上げて、目一杯香りを吸い込む。
胸の奥の方で何かがザワザワと音を立てた。
白い花。
1人で分け入った山の中で偶然見つけた群生地で見事に咲き誇っていた。


「見つけたんだ、山の中で。群生地っていうのかな?匂いに惹かれて行って見たら、辺り一面狂ったように咲き乱れていて…」


一旦言葉を止める。次に続く言葉を言いたくなかったから。
『怖かった』
だなんて。


「1人で山へ入ったのですか?」


あ…しまった。


「貴方にはこの辺りに生息する大抵の獣を倒せる実力がある事を知っています。でも、万が一何かあってからでは遅いといつも話していますよね?」


決してキツイ口調ではないが、重い声。
口をすっぱくして言われている事。でも、時々破ってしまう。
持て余した思いに押し潰されそうになった時に。

この村で生活して1年。表向きは受け入れられているものの、軋轢が無い訳じゃない。
俺の存在を未だに受け入れがたい人達も中にはいるのだ。
普段は綺麗に隠していても、それは時々表に噴出する。
疎外感を感じる位ならまだいい。もともと俺は余所者なのだからしょうがないし。
でも、あんな事……。

背筋に冷や汗が走った。
思い出したくない事が溢れてきそうになって、慌てて言葉を紡ぐ。


「それでね、その花が余りにも綺麗だったからさ、先生にも見てもらいたくて尋ねてきたんだ」


カップのお茶を半分ほど飲み干す。咥内にまで甘ったるい香りが渦巻いた。


「…そうですか。これからは気を付けてくださいね。それにしてもこの辺りで梔子(くちなし)が群生している場所なんてあるのですねぇ。危険な思いをしてフェイが見つけて下さったのですから、このお茶を飲み終えたら一緒に見に行ってみましょうか?」


嬉しい申し出と共に先生の声がいつもの様子に戻った事に安堵する。
そして…あの花の名前が"梔子"という事が何故かとても気になった。

「先生が一緒に行ってくれるなら俺も安心だよ。早くお菓子食べちゃわないとっ」
「大丈夫ですよ。花もお菓子も逃げませんからね」

クスクス笑いながらお茶の一時は過ぎていった。





□■□■□





「本当にこんな場所に咲いているのですか?」

訝しげに問う先生に向かって相槌を打つ。

「そう。俺もビックリしたんだよ。もう少し進むと甘い匂いがしてくるから……ほら、この匂いでしょ?」

先生の家に向かう山道を途中から逸れ、深い森の中に足を踏み入れる事40分程、俺たちは目的の場所に漸く到着した。
途中崖や小川を越えなければならない結構な難所を越えるのだから、村の人達が足を踏み入れる事などないのだろう。
そのお蔭でこうして人目に触れる事なく、ありのままの姿で美しく咲き誇る事のできる花たち……。


さっきまで怖かったのに、今はこの花たちが羨ましくて仕方なかった。


「ほぅ…これは本当に凄いですねー。先ほどは1人で山に入った事を咎めましたが、今は"良くぞみつけてくれました"とお礼を言いたい気分ですよ」


咲き乱れる梔子の美しさに感嘆の声を挙げる先生。
おもむろに一輪手に取ると、深く香りを吸い込んだ。

先生の細く長い、少し節くれ立った指が触れた瞬間…恥らうように俯く様に頭を垂れたその花が…酷く羨ましく見えたのは何故だろう。
普段なら興味深い物を手にした途端あれこれ薀蓄を並べる先生の口唇が微動だもせず、一身にその花弁を見つめていたせいだろうか?

わからない。
何故だかわからない。
でも、これ以上この光景を視界に止めておくのは苦痛だったのは確か。

片膝をつき、優しげな視線を梔子に注ぎ続ける先生にゆっくりと近づく。
隣に同じように片膝をついてしゃがみ込み、変わらず視線を注がれている花に手を伸ばした。

「フェイ?」

幾分訝しさを込めた呼び声に目もくれず
先生の手から奪った花を口唇に運んで…



(コクンッ)



俺はその花を食べてしまった。
ふぅ っと一つ大きな息を吐くと、体内で温められたのか、一際甘い香りが口唇から零れた。

「良い、香りですね」

半ば手放していたような意識が、その一言で急速に浮上した。
俺は何をしたんだ?
大きく肩を震わせて、先生から顔を背けたが後の祭り。そんな俺の様子などおかまいなしに、今度は先生の指が有無を言わさぬ動きをする。
ゆっくりと、背けた顔を先生の方に向き直させられた。
細く長い指が、俺の両頬を捕らえている、冷んやりと乾いた感触。
スローモーションのように近づく先生の顔。
優しさと、知性と、どこか掴み所のなさを同居させた瞳に視線を合わせてみても、真実なんて何一つわかるはずもなくて。

いたたまれずに、『先生なら、この気持ちを教えてくれると思ったんだけど』 そう呟こうとした次の瞬間。

熱を持った何かが俺の口唇を掠めた。
腰から脳天に向けて一気に掛け上がる正体不明の衝撃に俺は慄いた。

「これは…酷く甘いですね。悪酔いしそうだ…」

やや掠れた先生の声がびっくりする程耳の傍から聞こえ、慌てて身を引いても既に両腕に囚われた後。
逃げ出そうと試みても回された腕の強さを感じるばかりで、羞恥心が体中を駆け巡っていく。

「もう少し、堪能してもいいでしょうかね…」

誰に問うでもなく呟かれた言葉は、答えを待たずに再び一際甘い香りを零す口唇に溶けていった。










重ねられた先生の口唇は酷く熱くて

舌先は俺の口唇をゆっくりと辿っていて

辿る動きに慄く自分が怖くて

思わず息を飲み込もうと微かに開いた口唇を

見逃さない先生の舌が

塞がれても尚

眩暈がしそうな程甘ったるい芳香を零し続ける咥内に

躊躇なく忍び込んで

胸の中は

奇妙な感情で、理解不能な想いで覆い尽くされていくのを遠くで感じながら



俺は完全に   思考を手放した …











「…梔子の花言葉を知っていますか?」

覚醒を促されるような問いに、意識の手綱をゆっくりと手繰り寄せていく。
霞掛かったような視界は、それでも声の主を中心に捕らえている。

「わか…らない…」

搾り出した呟きは自分の声とは思えない程の艶を含んだ響きを纏っていて、何だかやるせなかった。

「"私は幸福すぎるのです"…と言うのだそうですよ…」

"誰が?" と 聞きたかったけど、その疑問は再び重ねられた口唇に閉じ込められてしまったから。
それ以前に、疑問に思う事すら憚れる事なのかもしれなかったし。





胸の奥でわだかまる感情を … 『 恋 』 と言うものだと俺自信が気づくのは
この時よりかなり先の事となる………










Fin.



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