時には必要
- 十二国記のお題 4 -





コトリと、筆を置く音を聞き逃すことはない。
盛大に広げられていた書類を丁寧に重ね文箱へと納めると、小さく1つ息を吐く人。

長時間同じ姿勢で凝り固まった肩の筋肉を解すべく、両腕を頭上で伸ばす衣擦れの音。
次はその体勢のまま首をクルクルと器用に回して…組んでいた腕を解きながら大きく深呼吸。
左肩を右手で1,2,3,…5回。左肩を右手で1,2,3…5回。

一連の動作が終わるのを見計らって手元の書類から顔を上げると、待ち受けているのは『これでもか』と喜色に細められた翡翠の瞳。
卓子に肘を付き組ませた両手に頤を乗せ、期待に満ち満ちた視線を投げかけられては…逃げる事など出切る訳がない。



「今日のお仕事、終わったよ」



まるで花が綻ぶ様に、優雅な笑顔で呟くのに…卓子の下では小さな子供のように足をパタパタと揺り動かしている。



「景麒、今日のお仕事は終了しました」



追い討ちを掛けるように、更に艶を増した笑顔を惜しげも無く振りまく姿…これを見てしまったら…。



「け・い・き?」



誘蛾灯のような甘い囁きに抗える者などこの世に存在するのであろうか?

これでもか!という程盛大な溜息を零しつつ、手招きされるまま主上のすぐ横まで歩み寄った。



「早く〜早く〜!」



ジタバタと足をぱたつかせ、口を尖らせながらの催促。
それでも尚、逡巡する私の姿に今度は両手を卓子にドンドンと打ちつけ始めた。
これが主上の我慢の限界。

諦めをつけるように1回、首を左右に振ると…お待ちかねの主の瞳がキラキラと輝いた。
呆気なく陥落する己を幾分情けなく思いつつ、それでも本能に抗えない部分で喜びを感じる奇妙な高揚感。

意識を額に集中させて、もう1つの己の姿を迎え入れた。



「やっとご褒美もらえるのか」



ホゥと安堵と思われる吐息を吐き、極上の微笑みを浮かべる

ここよりしばらくの間は主上の独壇場である。
書卓の傍に設えられた榻まで促されると、我慢しきれないと言わんばかりに首筋にしがみ付いてきた。

「う〜ん、やっぱり気持ちいいなぁ…」

剣を扱う者としては細くしなやかすぎる指先が、何度も何度も己の鬣を梳いていく動きに身を任せる。
満足行くまでそれは続き、一心地ついた頃を見計らって主上はいつも通りに立ち上がった。

「このまま大人しく待っててね?」

書卓の一番下の引き出しからゴソゴソと取り出してくるのは美しい細工の施された螺鈿の小箱。
決して華美すぎないそれは所々に紫水晶で作られた藤の花が綻んでいた。
榻の上に小箱を置きゆっくりと蓋を外すと、中身を丁寧に取り出し箱の横に並べる。

「これはね、この間鈴と一緒に堯天に降りた時に見つけてきたんだよ」
「これは氾王から時節の御挨拶を頂いた時に一緒に使節の方がお持ち下さったんだ」
「こっちは六太君からの差し入れだったかな」

慈しむように並べられていくそれらの品は、時が経つにつれて少しずつ数を増していった。
そんな主上の姿を私はただ静かに見守る。
主上がこちらで過してきた年月と共に増えていく品物を手に取る度、主上の口唇から語られる想い。
忘れないように、確認するように紡ぐ言葉とその光景はまるで何かの儀式のようで…。

「おいで景麒」

一連の儀式が終わると、少しだけはにかんだような笑みを浮かべて両手を広げて己を迎え入れてくれるのだ。
静々と誘う腕の中に滑り込み、榻には腰掛けず床に座り込む主上の膝へと頤を乗せた。

木地を生かした彫り物が施された櫛で鬣を梳られる。
絡みがないか傷んでいる箇所はないか確認しながら、それはかなりの時間をかけて行われる。

以前は『どのような顔をして主上がこのような行為をするのか』が気になり何度か表情を伺おうと頭を動かしたが、その都度『景麒!』と軽い叱責を買ってしまった。
諦めてされるがままにされる事数回、いつの間にか頭を動かさずとも己の視界に入る位置に小さな鏡が設えられていたのだった。

主上が置かれたのか、それとも些細な事まで気の付く主上の"友達"が気を利かせてくれたのか…その鏡は私が望む物を須らく映し出してくれたのであった。
それは安堵に満ちた微笑であったり、喜色を満面に浮かべた物であったり、時に厳しく誰をも近付けないような物であったり…主上の表情が、心内が手に取るように映し出されていた。





『私もお前も、言葉が足り無すぎるんだよね』


折りに触れて苦笑混じりに主上の口から語られるそれの意味を噛締めるには十分である。

確かに…私達の間には言葉という物が足りなかった。
『王と麒麟は互いの半身である』とはよく言った物で…主上が考えている事、何故そのような結論に辿り着いたか、時に理解したくないであろう事まで解ってしまう事がある。
そのくせ、心から理解したいと思う事柄は一向に理解できず…。

そんな時にこそ『言葉』が必要なのに、溢れる想いとは裏腹に閉ざされる口唇。
たった一言、それだけを伝えればいいと解っていても…私は何かを恐れ、いたずらに口唇を閉ざすのだ。
言葉を惜しんでいるつもりはないのに、どうしても"その一言"が言えなかった…臆病だった。

伝えられない言葉が降り積もって行く回数が増えれば増える程、本来なら重なって行くはずであろう主上との想いはすれ違い続けた。
すれ違いは誤解を生み、誤解は疑心へと繋がり…これ以上はありえないという決定的な決別まで後1歩という所まで差し掛かった時であっただろうか。

『人』という姿を持つことを厭った。
人という枠に囚われすぎて己を見失ったのではないのか?と…要するに逃げ出したのだ。
己の本性は獣。獣は本能に従う。人の姿は己の本能を押さえ込む枷にしかならないのではと。
そんな枷などありはしないのに、そう思う事で己の不甲斐なさが招いた現実から逃げ出そうとした。

何が「麒麟の本性は仁」であろうか?
『お前は情けをかける相手を間違っている』と何度主上に言われたであろうか?
現実から、慕うべき主上から一瞬でも逃げ出そうと己に情けをかけるとは本末転倒。噴飯物の馬鹿さ加減である。
それでも…あの時の己には『人としての姿』を厭う事しか出来なかった。

突如転変した姿で現れた私を主上はどのように思われたのか…私にはわからない。
唯その時も余計な事は言わずに『おいで』と一言、両手を広げてくれたのは確かだった。
吸い寄せられるように収まった腕の中は、今まで感じた事もない安堵と幸福に満たされていた。

私が欲して止まなかったものを与えてくれる腕の温かさに感謝した。
満たされた想いが溢れすぎて零した涙を拭ってくれる主の指の愛しさに胸が震えた。
己が"恐れていた物の意味"を、その時になってやっと理解した。

『心』という不可思議な存在を…受け容れる事が出来た瞬間であった。





そんな一件があってから、主上は「御褒美」と称して時折私に転変後の姿を望まれる様になったのである。
奏上された議題に紛糾する日々が続いた時、王として麒麟としての意見が相容れず歯噛みしたくなる程すれ違ったり、政務に追われろくに会話も取れないような時…何とか問題を収める事が出来た後に。
ゆったりとした時間を持ち、言葉では表すことの難しい想いを垣間見せてくれる。
このような時間をとるようになってからは、以前のようにいつ均衡を失うかわからないような日々を過す事は確実に減って行った。

1度だけ主上は私にこう仰られた…『無理に言葉を紡ごうとしなくてもいいよ』と。
時々こうして御褒美をくれれば、それで充分だと。

主上も感じて下さっているのだろう…私がこうして主上に身を任せる事への安堵、抑える事の出来ない思慕、満たされる想い…。
『言葉が足りずとも伝わる物がある』と、互いに体現する一時の意味を。



納得行くまで梳ったのだろう。櫛を小箱の中に収めると、小さな壜を手に取る。
蓋を開けると慣れ親しんだ香りが一筋零れ出た。

「次はオイルマッサージだよ」

普段私の装束に焚き染められている香から抽出したという油を1滴、椿油を数滴掌に混ぜ合わせると梳き終わった鬣や身体に摩り込んでいった。 主上の掌と己の体温とで温められた香から立ち上る匂いが、2人だけの堂室に充満していく。
政務の間として使われているこの堂室には朝の要人は誰しも立ちいる事を許されている。なのでこの堂室には色々な香が普段は溢れているのだが、この時だけは己の香りと主上の醸す甘い香りだけに満たされるのだ。
何となく征服感のようなものを感じ恥じ入りつつも、"今だけは…"という思いがあっという間に思考を埋めて行く。



時には必要なのだ。『甘える』という、建前も外聞も取り去った至福の一時があっても…悪くは無い。



身体中をゆったりと辿っていく主上の指先に、余りの心地よさに時々耳がブルっと震えてしまうのは御愛嬌。
そんな己の反応を見ては、楽しそうに目を細める主上は稚い少女のようで。いや、実際まだ少女なのだけれど。
"王"という冠を一瞬脱ぎ去り、年相応の素顔を己に垣間見せて下さる。
どんな言葉でも補う事などできない。『信頼されている』と、『私を信頼して下さっている』と目の前で体現なさっているのだから。

普段人型の時に充分過ぎるほど女官により手入れされているので、獣型になろうともそれほど変わる事はない。
磨かれた爪先は、獣であるのに燈された灯火を柔らかく反射している。
それでも足を手にしては、爪の1つ1つを丁寧に磨きをかけていくのだから…参ってしまう。
苦笑を禁じえずクツっと零してしまうと、「してやったり」とばかりに返されるいたずら。

磨き終わった爪先にそっと寄せられる口唇に、視線を逸らす事など出来なくて。
勿論確信犯であるのだから、寄せる口唇はそのままにわざと視線も外す訳もなく…。



「…お戯れも、大概になさいませ…」



それだけ呟くのが精一杯である己が、目の前の美しい翡翠に敵う筈などありはしない。



「"お戯れ"ねぇ…」



何が勘気に触れたのであろうか。呟きの中微かに混じる苛立ちに戸惑った。
ほんの一瞬、俯いた隙であった。

鼻先―口元―に間違い無く触れたそれは余りにも甘やかな香りで、柔らかで…唯々瞠目する事しかできなかった。



「しゅ、主上!」
「あ〜、五月蝿い。こんな時間にお前が叫んだら人払いさせた意味がないだろう?」
「それとこれとは話が別です!全く、主上には"慎み"という言葉の意味がわからいでか!」
「はいはい、今日のグルーミングは終了!」



にっこりと、主上最大級の笑顔で言われてしまっては…。
盛大な溜息と共にトボトボと衝立の陰に入る。芥瑚が衣桁に整えておいてくれた衣を身に纏うと一礼して堂室を後にしようとした。

「そんなに怒るなよ。お前が余りにも雰囲気ぶち壊すような事言うのがいけないんだぞ?」

拗ねたような、それでも少し困ったような顔をしつつ、獣型の時とはまるで別人のように恐る恐る私へと伸ばされる腕を拒む事などやはりできる訳もなく。

「もう"御褒美なし"とか言うなよ?」

右袖の袂をキュッっと握り締める主上の姿に、視線の高さを合わせるよう腰を屈めた。

「言える訳がございませんよ。私にとっても"御褒美"であるのですから」

ポンポンと、小さな子供の頭を撫でる様に紅の髪に触れた途端、花開くように零れる笑み。

「夜も更けて参りましたので失礼仕ります。明日も朝議が控えておりますから主上も早々にお休み下さい」
「うん、わかってるよ。明日からまた戦いだしね」

そう言った主上の顔はもう"王"のもの。
明日奏上される議題の凡その検討は既についている。方針を見出す為にはそれ相応の時間と遣り取りが必要であろう事も。

息抜きでも甘えでもいい。主上が主上であるために、私が麒麟であるために必要な時間。
互いに不器用である事を熟知した上での妥協点。
今はこれが精一杯なのだから…。

今度こそ退室を許されて正寝を後にする。
仁重殿へと向う足取りは自然軽い。癒され満たされたのであるから当前ではあるけれど。

穏やかに光りを注ぎ続ける月を見上げ、主の心もまたこの月光のように常に穏やかであられる事を希い、明日の朝議へと思考を移した。







お題 「 主従関係 円満のコツ  」



chapunの言い訳

うーん、陽子してやったり?(ぉぁv
でもこの2人って「素直じゃないぢゃん!」とワタクシは思ってますので、やっぱりここらへんから"恋愛の機微?"のような物を感じ始めないとどうにもならんのではないかと・・・(お題とズレてるけど気にしないように;
結果的に円満ならOKということで。。。v

てか拙宅の景麒はヘタレ杉ですね;こんだけ鈍いから所詮ペットでしかないんでしょうか?!(ヲイ
グルーミングの意味を六太から教えてもらっているのか否か…(鬱
頑張れ景麒!『脱ペット』の道程は長く険しいぞ!!(゚×゚*)プッ



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